啓発舎

マジすか? マジすよ

「粋ジイ」の要件が、どうでもいい、ということだ、と書いた。
説明する。

シベリウスを例にとる。

近頃、シベリウスを聴いている。
シベリウスは、長いことピンとこなかった。
2番のシンフォニーは、アマチュアオケだったら、いずれ必ずやる曲だが、何回弾いても、とことんださい、と思う。今でも。
おととし、メインがこの曲だったので、本番に乗らなかったぐらいだ。出演見合わせました。
定番で嫌いなのは、この曲のほかは幻想ぐらいで、新世界も悲愴も、どこかいいところはある。

ところが、このところ、妙にyoutubeで、シベリウスにひっかかるようになった。
3番までは、全然効かない。
聴いているのは後期の、5、6,7、特に最後の7番。

いずれも地味な曲です。
ひとの感情をゆさぶろうということ皆無。
人間世界を相手にしていない、ということはすぐわかる。

西洋の人は、そうなると、神の概念をひっぱってきておれなんかつまらなくなることが多いのだが、シベリウスさんは、おそらく、キリスト教的な一神教みたいな超越的な存在は、注意深く避けていると思う。

自然、といってしまうと手垢にまみれているが、あまねく時空を充たす空間そのものを表現する、というより時空間に向かって放射する、というかんじの音楽。
聞き手の存在に無頓着なかんじ。


もう、ひと、および、ひとが蝟集する空間なんか、どうでもいいんですね。


そういうこと。

世間さまのことはだいたいわかった。
ここを押すとここが出っ張る、とか、あそこを引くとここが決壊するとか。
ムキになってやりあうのはおろかものだ。


では、これからどうする。
そこで、やむにやまれぬ、自分でもなんだかわからないが、氷河の流れ、のような、不可逆な力に自分自身が運ばれる、というような、じじいが、たまにいる。


シベリウスさんの晩年は、まさにそんなかんじだ、音楽を聴く限り。

ブルックナーは、ほんにんが自分をどう思っていたか、逸話からは俗物そのものだったようだが、本人を超えて音楽は普遍的だ。
神を相手に作曲しました、みたいなことを言ってるらしいが、本人が、どういう神を措定したかはわからないが、教会のオルガニストだから、当然キリスト教だろうと考えるのは少し早計に過ぎると思う。
彼が措定した神が、一般が認識するキリスト教の神概念か、わかったもんじゃありませんよ。
出来た音楽は、もっと汎神論的だ、と感じる。


お迎えがくるまでひまつぶしなのだから、自分の中のやむにやまれる声に素直に感応するのが、カッコいいじじいの生きる途だ。

ほかのことは、どうでもいいです。

これが結論。
どうでもいい、というのは、そういうことなので、捨て鉢に日々やっていく、ということでは、全然ありません。
自分の裡の声に耳を澄ます、ということです。
そうすると、いやでも、「どうでも」よくなります、ほとんどのことが。