啓発舎

マジすか? マジすよ

仕事で京浜東北線を北上してきた。荒川を越えた川口の先。
駅前は、以前は場末感はあったが、当局の無届営業摘発の波状攻撃で、かなりすっきりしている。
今回インパクトあったのは、環境でなく、人。
この景色だけみて社会の階層化の進展を読み取るのは、早計か。

金持ってるか持ってないか、ではないと思う。
金回りは、みんなだいたい同じペースで悪くなっている。


金以外、というと、すぐ、教育だとかなんだとか言うが、おれはそれは短絡だと思う。


自分自身を省みてそう思う。
おれが今の状況なのは、教育の機会を得ながらその環境の中でぶっこまれる情報を悉くスルーしたからなのか、感じやすい年頃に教師をおちょくりまくったからか、それは今度気が向いたら考えてみることとしたいが、漠然と、教育どうこうと、その人間のポジションって、いまのこの国で、あまり因果関係でくくれる強い関係にはないような気がおれは、する。
情操とかそういうややこしいことな抜きにして、読み書きそろばん、国語算数理化社会の範囲でいうと、教育あるなしは、いま、ほとんど関係ないのではないか。
パソコンひとつと検索の基本的な知識があればなんとかなるんじゃないか。
もちろん、パソコンからいろいろ引っ張りだすための素養は、どうするの、ということはあるが、それはそいつのサバンナ生き残り術よ。



みたところ、そんなに不幸せ感ないし、居合わせたファミレスでがんがん注文しているし、いいじゃん、という気もする。

ただ、そういう人たちを集団として俯瞰できる今日のような環境におかれると、伝わる迫力にある種の緊張感を覚えざるを得ない。
言葉は通じるかもしれないが、感性の共有はたぶん難しいだろうな、というかんじ。


下町にはしょっちゅういくが、そこには、実はピンと張ったモラルがある。道徳律にしたがってみんな日々やっている、昔からいる人は。


今日、瞥見した人々の太宗は、とりあえず楽、ということ掟として、それに忠実し従っているように、見えた、マスとして。


イチローも、ヤンキースでやってるんだからヤンキーといっていいのだろうけど、彼は一本びしっととおってるよな。