雨に降りこめられて半日王維とつきあったのであった。
ただの貴族趣味のおじさん、ではない、ということがよくわかった。
確かにきれいごと、ではある。
南画をそのまま言葉にしたようなところはある。
宮廷歌人なのだから、しかとない、それは。
ひまなので、岩波文庫を二度ほど通読した。
どうしても伝わってくるのは、厭世、隠者への憧れ。
この人に底流するのは、それだ。
君と別れて悲しい、でも、皇帝よいしょ、でも、この人は、叙景をまぜる。
で、その、景色だが。
たとえば白雲。この言葉、多い。
雲は、そりゃ、なにものにも煩わされず、ゆったりとたゆとう存在そのものだ。
おいらも、つまれば、空、見上げるさ。
叙景の他の例示は略。原典を読んでくれ。
で。
晩年唯好静
万事不関心
は、すぐその先だ。
美を固定するまなざしは、この国の美意識と似ている。
夕日が苔を照らす、とかは、室町のころの禅の庭師のことばであっておかしくない。
ただ、違うのは、そこで安らいでいるところ。
大和のくにの人々は、苔にはえる西日が美しい、となると、それをもって、また突き詰めようとする。
あたりの樹木をとりはらい、黄昏の気を排し、白砂、わずかな緑で厳しくこれを抽象化する。
おいらの行く末は、どっちか、というとこっちのような気もするが、いまのところは、王維の軟弱貴族趣味のほうが、ほっとする。ふにゃっとしたいんです。
文庫に、朱子の王維評がのっていた。
「其の人既に言うに足らず。詞は清雅なりと雖も、亦萎弱にして気骨少なし。」と手厳しい。
これは、しかし、真央ちゃんに吉田さおりのタックルを求めるようなものだろう。
朱子をしてそう言わしめるのが、王維の栄光である。
胃弱、ではないか、萎弱にして気骨少ないところが、いいのだ。