梅雨のはじめの、ひいやりした夜気。
荻窪に越してきてひと月たつが、空気のおいしさはいつも新鮮な気づき。
通りの向かいが近衛邸の庭で、大きな木々が風にそよいでいる。
当方は、というと、この、一年に何日あるか、というしっとり涼しい晩に、裡なるマグマの対流をじっと感じて一日を過ごす。
先週は、9時5時から解放された第一週で、日々浮世のしがらみから解き放たれる実感があったが、一週間たってみると、それもまた日常になり、こんどは、自分の内側からの突き上げが始まったようだ。
ほっとくしかないだろう。
想念はやり過ごすだけ。
水泳。読書。
読書がいいのは、受け身でいられることだ。
図書館で15冊まで借りられるので、きのう6冊借りてきた。
丸山眞男座談9 岩波
エリッククラプトン自伝 イーストプレス
出家の覚悟 サンガ
世に出ないことば 荒川洋治 みすず
そこは自分で考えてくれ 池田清彦 角川
西村朗対話集 春秋社
という自分でも脈絡の感じられない6冊。
ざっと読んだ。
意外だったのは荒川さん。
手だれが本に触発されて自らを語る、というつくりであるのだが、あれ、浅いぞ、という箇所がちらほら。
ちょっとびっくり。
池田氏は、おなじ歌を歌っているのだが、なぜだか、この人、気が合う、元気でる。時事問題についての意見の内容などどうでもよくて、その勢い、通説をまず疑う、多数に与しない、という姿勢そのもの。
体質的なもの。
西村さんの対話集は現代音楽の作曲家の貴重な証言だと思う。
丸山さんはこれから。
クラプトンは波乱万丈ですね。
で、最後はアルボムッレ・スマナサーラ氏と南直哉氏の対談。
かみあわない。そのかみ合わない加減が面白い。
アルボムッレ氏は、ラディカル。
南氏はロジカル。
宗派の違いだのブッダの教説の解釈だの、現代日本が如何に病んでるか、の類はどうでもいい。
究極はなんなの、というところ。この1点。
南氏に、その解答もその問いを受ける肚もないのはとっくにわかっているので別によい。
アルボムッレ氏から、これのさわりでもあればという興味。
で、それが、あったんですよ。
以下、抜粋。
ス:ある人が、私に「先生、これ以上やることはないのです」と言ったことがありました。
中略
南:つまり、そうやって修行してきて、ある段階で、自分で、「ここが最高だ」と決めてしまうわけですか?
ス:いいえ。その人は「これ以上やることはないのです」と言っている。それで、私も「そうかもしれない」ということで終わったのです。その人はちゃんと実践していたのです。ですから、これ以上やることはないという確信が大事なのです。
南:なるほどね。
ス:このようなことは、固定観念や信仰があると、大きな障害になります。
南:そうすると、「これ以上はない」と言った人のその言葉は、それで正しいと思われたのですか?
ス:ええ、正しいのです。ずっとそのプロセスを行っていましたから。
南:なるほど。そのプロセスで「これ以上ない」というのが、悟ったということですか?
ス:まあ、日本語で表現すれば。
これは、ダイレクトに、体にくる。
ここでも、南は、「これ以上はない」を当初「ここが最高」と誤読する。
最高とか、ピークとか上り詰める、とか、そういうことではない、というのは、当方の予感、というのも口はばったいが、体感は、ある。
信仰のドグマでもねばならないの固定観念でもなく、ああ、ここまでだな、これ以上はないな。という体感。
あとは、なんだろう、眺めて生きる、生かされる、ということ。
そういう気配ですよ、当方の前にこれから拡がるのは。
で、いまは、マグマです。