啓発舎

マジすか? マジすよ

◆美を提示する際の様式感のようなもの。
手の内。
それがなんとなく見えた、というのは、言い過ぎか。

◆今回、昔、といってもせいぜい5年前だが、の立ち回り先を改めて辿った格好になった、結果として。

それで、冒頭の感想。帰って一日経って。

ふうん、というかんじ。

まず、庭。石、苔、植栽、建物。
庭、特に禅の庭は、時空との関わりがたいへん強い。

今回佳水園に泊まった。
これは禅の庭とは言えない。
それでも、玄関をはいり、すぐ脇にある簡素な椅子に座り、数寄屋のひさしの向こうに広がる白と緑の空間を眺めていると、いやでも時間、を観じないわけにはいかない。
過ぎる時間ではなく停止している時間。あるいは、たゆとう時間。
四角く切り取られた空間が、この庭の眼目であることは誰でもわかる、というより体感する。
空間が主人公であることは自明。
そこでしばしぼーっとしていると、石の白、緑、土の色、壁の白、水にぬれた石組の黒、が、空間の中ににじみ出て、時間が停止する、或いは、行きつ戻りつする。
空間と溶け合う。

ということを、庭は、優れた庭は提示する。
これが、美、というものですよ、と。

五感では、聴覚がいちばん最後に追いつく。
時が再び流れ始めるということだ。


京都の凄いところは、こういう定式化された美、が、そこここにごろごろ転がっている、ということだ。

客室へ向かう通路が、なんだろうクランクになるのだが、その角に染付の壺が飾ってある。障子越しに間接光がそれを照らす。
陰翳。壺の白い肌。空間を切り取るフォルム。
もはや、見ている対象は壺ではない、壺をめぐる、空である、あたかもルーブルのニケが空間を領するように。


そういうこと。ニケも壺も一緒。

早朝南禅寺に行きました。
三門から方丈に向かって碁盤の目のように苔の庭が区切られている。
例えば、そのうちの手前の左側の区画。
東山の朝は薄暗い。
深い緑と樹影の黒だけの区切られた空間。

たとえば方丈の庭は、この向きでこうやって見てください、だが、この南禅寺の三門のあたりとかは、どこからどう見ようと、どこにいようと自由だ。


切り取って時空を示す。その手際がここまで洗練されるか、というのがこの場所の凄さ。



ということをずっと観じていて、それで、手の裡、という冒頭の感想になったわけです。


京都に毎週のように足しげく通っていたのは関西に移り住んだ2004年の秋以降東京に戻った2008年の初夏までだから、遠ざかってすいぶん経つ。


今回、時間をおいたことで、却って、そいういうメカニズム、構造が、なんとなく体感された、のだろうか。


だから、今回は、以前散々言っていた「美の不意打ち」は、なかった。
ある意味予定調和みたいだった。


それでも、その「構造」は凄いと思いますね。

とりとめのない話。