啓発舎

マジすか? マジすよ

◆で、きのうは終日自宅籠城。のどのはれ。
 雨模様で、南西角の拙宅も昼からどんよりうす暗く、当方の気分とまことに符合していた。
 浮かぶ想念はどれも後ろ向きのことばかり、うつらうつらしてみる白昼夢は、邪魔が入りどうしても目的地にたどりつけない類の、例のやつだ。
 夕方になって体調がやや回復、少し、positiveにものが考えられるようになり、冷凍庫でかちんかちんになっていた鴨を解凍して昆布出汁で温め一気にこれを食い、8時ごろから朝まで熟睡。
◆一時的にせよ体調をくずすのは、この年になると、結構きつい、特に気持ちが。
◆唯一、一日中まどろんでいる甘美さぐらいか、いいことといえば。これも後ろめたさと抱き合わせだが。

◆必要に迫られていることもあり、しばらく楽器にしがみついてみるか、という気もあるのだが、億劫、めんどくさい、という当方の物事に処すにあたっての基本的な姿勢が邪魔をする。

◆最近寝床で開いた本。
 カエサルガリア戦記勝海舟氷川清話、道元正法眼蔵、など。
 カエサル道元の圧勝。勝は、なんかあやしいぞ。おいらもだてに五十年生きてないぞ。オレがオレがという言いぶり、妙に話を省略するところ。言わないでいることが気になる。人物月旦もすこし皮相的なところがありゃしないか。どうでもいいか。
 それにしてもカエサルの、なんというか客観性はすさまじいな。
 第七章など、敵のガリアの動向、ローマ軍に対する攻撃を淡々と延々と、ガリアの立場で叙述する。敵だよ。
 なんだこのやろう、とか、やられた、たいへん、とかの主観のひとつもいれたくなるではないか、或いは行間から匂ってこようというもんじゃないか。それが絶無。
 こういうものをガキの頃に叩きこまれた連中が差配する国は靭い。一時期のイギリスが七つの海を支配した一因はこのあたりにもあったのでは、とほんとに思う。
道元も、情をいれない。
 水、水をみる、とか、山は当然歩くとか、その種の言い分はまあ措くとして、徹底的に情、楽しい哀しい、明るい暗い、およそ人がものごと、そのほとんどは自身を含む人に対するもろもろであるのだが、ものごとに対する感情の類に言及しないのは、いっそいさぎよい。特異な宗教家だと思う。
 そこにひかれて枕元に置いている、玉城康四郎さんの現代語訳でだが。

 などと病み上がりのおやじはあれこれ妄想する。