啓発舎

マジすか? マジすよ

動物として弱まってるな、と思うと井筒俊彦さんに手がのびる。
或いは漱石。特に「道草」。
漱石はやさしさ。
井筒さんは、生きる力。
この、「やさしさ」「生きる力」の語は、両方とも注釈が必要だと思う。一般的に遣われる意味とはちょっと違う。
漱石の「やさしさ」、井筒さんの「生きる力」のテーマで週末にでも、また書きます。

で、今日は、井筒さんの本の話。
「意味の深みへ」岩波書店刊。

井筒さんで一冊といったら、私はこの本だ。「意識と本質」ではなく。

特に、冒頭の論文「人間存在の現代的状況と東洋哲学」。

講演のための記録なので、話言葉に近く、達意のわかりやすい文章。筆者が読者に寄り添っている。
ほんとに言いたいのは、こういうことですよ、と。
こういうところに急所があるのだ。
特にP26以下P40の半ばまで。85年12月10日の初版本で。
更にP34の8行目「東洋哲学的観点からすると、」からP3911行目「そしてこれこそ、「有」から出発して「無」に至り、「無」からまた「有」に戻る、つまり表層、深層をともに合わせて、意識のあらゆる層を観想的に知った人の目に映るリアリティの存在論的風景なのであります。」まで。
 P39は、まるまる一文引用してしまったが、いま写していても、心がふるえるようです。

 「意識と本質」は、上記のエッセンスを、コアとなる思想、じゃないな想いを、古今の東西の知的遺産にその典拠を求めながら、演繹した結果の作物。

 想いは、上記「人間存在の現代的状況と東洋哲学」に不足なく著されている。

 井筒さんの希求するところ、自身この世に生を受けた者として目指さざるを得ないと期するところ、そして、おそらくは、道半ばという認識で、心底あくがれていらっしゃるであろうこと、そういうことが、全部詰まっている。

 真摯、という語は、さいきんやたらに遣われるようになっているが、まさに「真摯」というにふさわしい、混じり気のない、姿勢。

 元気でます。力もらえます。
 同じ道のとば口でうろうろする者として。同じ道、などと勝手に僭称するのもおこがましいかもしれないが。