啓発舎

マジすか? マジすよ

ルソーに触発されて

今日コンビニでSPAを立ち読みしていたら、福田和也氏が「ルソーは、教育の意義を、奴隷の立場でも精神の自由を失わないことにある、と言った」というようなことを言っていた。膝を打って、お皿が割れそうになったよ。孫引きじゃだめだ、エミール、よまなきゃ。
教育で、即ち他からの働きかけで「奴隷の立場でも精神の自由」を確立できるかは少し疑問だが。
教育にそこまでの力があるか。
川まで連れていくのが教育で、実際に水を飲むのは、やはり本人ではないか。
離陸というか浮遊というか、それは結局自ら助走して実現するのではないか。
と、ルソーだかなんだかに託して自らを語る。
当方、9時5時は、例えば今日も、はっきりと奴隷の立場。その中で自分の座標軸を維持するのは、結局、自ら獲得した物差しによる。

年とると、世界は、自分の中にある、としみじみわかってくる。で、じゃあ、自分の中をどう風通しよくするか、といえば、その、自分のなかをがらんどうにする、遊ばせる、ということに自ずから向かう。

これは、他律的には実現しない。

自分で、しかも、已むにやまれず、という、どうしてもそうなっちゃう、という内発的なものが、そうさせるのだ。
いろんなことがどうでもよくなる、ぼーっとする、というのは、要するにそういうことだ。

精神の自由ということを、社会の枠の中で、なおかつ独自の視点でものを見る、というようなことであれば、それは教育の領域だ。枠の中のことだから。
だけど、精神の自由はそのうち枠を超える。

まあ、ぼーっとすることです。