21日。京都観世会館へ。
京都観世蛍雪会。
蛍雪とはいいながら、内容もあり、このシリーズ、よく通っていたのだが、この日はあまり当方にとっていいめぐり合わせではなかったようだ。
能については、当方、見る立場としても素人という自覚があり、おや、と思ったことについての発言には慎重でありたいので感想は手短に。
松虫では、舞いでは、きちんと静止するということが大事だということ、善知鳥では、内発的な感情の強さ(あるいは弱さ)は、すぐ伝わるということ、がよくわかった。
善知鳥のお囃子は面白かった。
急にテンポが速くなり、それにつられるように、シテが鳥を捕る所作をする。
シリアスな場面であるのだが、この日は、なんというか、巧まざるユーモアを感じた。正しい鑑賞の仕方かどうかはわからない。
三条スタバの川床で気分をかえる。空いていました。
祗園祭もおわり、こどもさんは夏休みで帰省、京都もこれからオフになります。
四条河原町の交差点で舛添要一氏の宣伝カーにでくわす。本人が助手席から手をふっていました。
道行く人は、概してそっけなく、信号待ちでしばらく停止していたのですが、ご本人も、間が持てないようなかんじ。
女の子が2〜3人、この人テレビでみた人、ってな感じで受けると、うぐいす嬢がさっそく「ご声援ありがとうございます」と反応していました。
雨は降らないけど曇り空。
なんとなく片付かない気分で帰宅。
しゃきっとしたいと思い、井筒俊彦氏。
「意味の深みへ」岩波書店
講演記録が多く、この筆者の書いたもののなかではとっついきやすい。
「意識と本質」の副読本として読める。
なかでも「スーフィズムと言語哲学」という一篇など、ヒント満載。
冒頭近く、スーフィズムを「イスラーム神秘主義」と置き換えたうえで、神秘主義という語をこの人らしい厳密さで改めて定義するところがあるのだが、少しだけ抜粋。
「ここでは、仮に神秘主義とは人間が自己自身、すなわちわれの真相、本当の姿を直接自覚すること、そして次にまたその自覚の境地に開けてくる意識のある特殊な認識地平に顕現する存在の究極的な様相を把握することである、といたしておきたいと思います。簡単に申しますと、意識の深層を開くことによって、主体、客体を含めた意味での存在の深層、存在の深みをギリギリのところでつかまえるということであります。」
文脈では神秘主義の定義として書かれたものだが、私には、この人の生涯かけたテーマ自体を要約しているように思える。
当方がこの人をとても他人とは思えない所以である。