啓発舎

マジすか? マジすよ

文字表現の昨今

とっくにいろんな人が言っていることだが、ブログ、SNSの功績は、普通の人の面白さを引き出したことだ、と、週刊誌を立ち読みしていて、しみじみ思った。

 説明する。

 毎週木曜日、出版社系週刊誌ニ雑誌を立ち読みする(たまに買う)という習慣をかれこれ30年続けてきたが、そろそろやめる潮時か。
 記事のつまらなさに加速度がついていることは、売れない→取材費をけちる→ますます記事つまらなくなる→売れない、という誰でもわかる理屈で説明つくが、コラムもだめなのは、金では説明つかないだろう。原稿料けちってライターも二流になって、ということでは、まさか、ないだろう。特に紀尾井町で出してるほうの雑誌は、コラム拾い読み、という読み方ができた時期もあった。書き手のストックもそれなりにあるだろうに。

 なぜ、コラムが面白くない、と当方が感ずるのか。

 書き手が手を抜いている、とか、質が落ちている、ということでなく、それ以外の媒体がそれ以上に面白くなった、という相対的な理由しかない。

 いうまでもなく、媒体はネット、書き手は普通の人たちだ。

 いままで、とくに活字媒体は、限られたプロの書き手が、読者に情報を「あてがう」ということで書き手と読み手の秩序が成り立っていた。もちろん、書き手も、それなりに、ただ垂れ流すのでなく、情報を自らの知見で加工し、それが書き手の腕でもあった。
 ところが、しろうとの進出で、料理の腕の凡庸さが、露呈してしまったんですね。
 確かに素人は、当方を含め、煮たり焼いたりの腕はプロには劣る、はずだ。

 しかし、生の素材のおいしさは、凡庸なプロが火を通したものをはるかに凌駕する。のみならず、下手に手を加えてあたら新鮮な素材をだめにすることもない。

 mixiのしぶいコミュニティーの書き込みを順に読んでいくだけで、どれほど貴重な情報が入手できるか。

 語弊を恐れずに言うと、「教養」のフィルターを通過したバランスのとれた座標軸のあるオタク、こういう人たちが、細分化したさまざまな分野の旬をひっぱっていくんだろう、これからは。

 この分野、いろいろなカテゴリーの新しい知見は、従来活字マスコミでは、たとえば新書のお家芸だったはずだが、ひどいもんだ。
 なかみは読まず、目次だけ読んでいればいい、という時期があったが、いまはそれすら過ぎて、棚の前でざっと背表紙だけみればいい。
 
 きょうび、文字を追う楽しみは、わずかな例外はあるが、古典と、ネットのしろうと(間違いなく、ますます面白くなる)に、ほとんど尽きる。