今朝の春秋に触発されて書く。
京都をうろついていると、シラク伝説に良く出会う。
曰く、こないだ、ここの骨董屋でシラクが値切っていた、吉兆は飽きたから、どこか他へ連れて行けと駄々をこねた、等。
割烹のおかみだの、二流どころの道具屋がネタ元だ。
都市伝説の類だと思うが、日本に隠し子、云々は、いかがなものか、と思いますが、ね。
どうも、シラク氏が、京都あたりを嗅ぎまわっているらしい、と初めて聞いた時、ふうん、と思った。
他人事でないな、というのが、この、ふうん、の意味。
当時、当方も、この地に来て間もなく、修学院ショックで頭に血が上っているころで、美の究極を求めて、毎週末京都を徘徊していたころだった。当方も、京都とか、日本文化のえぐい伝統については、外国人のようなもの、そんな自分を第三者の立場で見るようで、うっとおしいぜ、という気分もあったようだ。
シラクのえぐさが京都とシンクロするのか。
ブッシュ親分の仁義を通さないサダム組殴りこみに対して、シラク組長は、筋のとおらねえ喧嘩には助太刀できねえ、と傍観の立場をとった。それは正しい。
で、テレビで声明を発表したのだが、その映像が、笑えた。
話、飛ぶが、モンティーパイソンで、ジョン・クリーズがよく、フランス人のものまねをしていた。これ以上およそ人、或いは民族をおちょくることができるか、というレベル。
バスチューユの次はBBCか、襲撃されるは、と心配になるほど。
ジョン・クリーズは、底冷えするようなところがありますね。パイソンメンバーの中で、立ち位置が一人だけ違う。酷薄なかんじ。凄いね。
話戻そう、収拾がつかなくなる、少し飲んでるし。
説明が要る。
例によって、大げさに肩をすくめたり、顔をしかめたり、大サービスなのですが、そこに、なんというか、ジョン・クリーズが戯画化したフランス人を、さらに真似しているような、「演じている」姿を感じたのだった。
レーガンだって、「役者以外の人間にに大統領という職がつとまるとは思えない」と言っているぐらいだから、当然演出はするだろう。
ただ、そのしぐさに、フランス人と大方の人が認識するだろうキャラを自ら演ずる、言ってみれば、パロディーを更にパロる、という重層的な構造を見て取ってしまった。我ながら穿ちすぎか、とも思うが。
これは強烈な印象だった。笑っていいのか、ある種の感動を覚えるべきか、自問自答しました。
ブッシュがこの人を、ほんとに毛嫌いしているんだな、と思ったのは、そのころ開かれたサミットで、記念撮影でとなりにシラクが立ったとき、反対側に無理やり顔を捻じ曲げるようにして、ポチ小泉にやたらに話し掛けていたのをテレビでみたとき。
したたか、老獪。
フーシェ、タレイラン、ヴォルテールを輩出したお国柄ですからね。
こんなおやじと同列では、やだな、でも、同類なのかな、という嫌な気分。
ただ、少しまじめになると、この人、美についての嗅覚はあるのじゃないかしら、根拠なし、直感だが。
美に貪欲な奴にはえぐい仁が多い、私の経験則。
日本びいき、なのではなく、普遍的な美を手繰っていったら日本に行き着いた、ということなのではないか。
そぎおとしながら美を突き詰める、という精神において日本は圧倒的だ。
それを見抜いていたのでは。
殊更に「日本」はじめにありき、でなく、あまねく普遍的な価値を求めていたら、日本に上陸してしまい、骨董屋で値切る仕儀に至った(ほんとかね)ということではないか。
そうであれば、まあ、同類と認めてやってもいい。
具象を離れ美を抽象化しようという精神自体の美しさ。そんなものはこの国にしかない、というのが、この稿の結論。
春秋子よ、ドミノ倒し式の連想で、こんなところまで行き着いたきっかけを与えてくれてありがとう、コラム自体はそれほど感心しないが、しつこいようだが。