終日寓居で窓の外の竹薮がそよぐ度きらきら光る木漏れ日を眺めながら、ひねもすぼーっと物思いにふけっていると、なるほどあやしうこそもの狂わしくなるものだ。
美、などというものに真っ向勝負するなど、分でないのは承知だが、昨日の保津川のあれこれを思い返していると、美しいと五感が感応するということには、時、時間が関っている、ということをしみじみ思う。時、時間が流れるということ。或いは、時間が凍りつくということ。いずれにしても、時、というものを認識する、というか、その時の流れの中に存在する、というはかなさ、というか、かけがえのなさ、というか。
美しい事象は、すべて時を表している、と突然思った。
水面から屹立する岩肌にしがみつく針葉樹。苔。時間が凍りつく(写真まずいね)。
水面にはらはらと降り注ぐ木の葉は、時の流れそのものだ。どきっとして、その後胸がさわがしくなる。
絵画は、優れた絵画は、それを閉じ込める。時を閉じ込める。
モネが一生涯を通じて追求したのは、時間を閉じ込める、ということではなかった。つみわら、大聖堂の連作を見よ。
鈴木其一の鷺の画も、時間を凍らせて閉じ込めることに成功したことが、あの、妖しい美しさになった、ということではないか。
音楽は、それこそ、時間の流れそのもの。
この2年間の豊饒な収穫は、そういう混じり気のない美に遭遇する機会に恵まれたことだ。
日本の人には、古来それを本能的に感得するセンサーがある。
それも普通の人に。
いずれ、この地に隠棲して、ただ眺める、ということをして日々過ごしたいものだ、しみじみ思う。