久しぶりに、京都の観世会館までお能を見に行ってきました。第16回能楽若手研究会京都公演。
番組は、お能:班女、阿漕。狂言:仏師
感想。
班女は、冒頭、ワキではなく、アイの狂言方がでてくるというめずらしい構成。遅れてシテが例によってしずしずと登場すると、宿の長であるアイがシテの班女を追い出しに、リアリズムの演技で橋掛かりに差し掛かる。シテは、これを無表情で(当然!)やり過ごし、そのまま舞台に進む、という、リアリズム対シンボリズムのすれ違い。品の良い滑稽を感じたのは私だけでしょうか。
阿漕は、どんな「阿漕」な奴かと思ったら、単なる密漁者でした。
京都に通っていると、「美の不意打ち」を稀に感じます。当方予想もしなかったところで、「美」としかいいようのないものに打たれる、という。
雪舟寺に活けてあった花であってみたり、南禅寺の雪景色であってみたり、待庵のお茶室であったりするのですが、今日もそれに遭いました。
冒頭、開始の合図で能管が楽屋でピーヒャラーとやりますね。その笛の音、倍音の多い音が次第に澄んできて、微妙な音程の揺らぎとともに消えゆく、その刹那。時間、静寂(空間)というものを直接知覚で認識するような。
お能は、もちろん総合芸術なのですが、私にとって、第一には、音楽です、どうしても。
冒頭の大鼓と小鼓のかけあいで、時空が日常から非日常にトランスする。そんな中、あの世から異形のものが立ち現われる。
時間の流れがかわる、空間が、あの世に移行する。静謐の中、過去の情念だけが移ろい、冷たく燃える。
その時間・空間を共有すること。それがお能を観照するということだと思います。
今日も、その体験がありました。しみじみしました。
最後にばか話。
帰りに白川沿いのお店で(店名は、呪文みたいで読めないぞ。そろそろイタリア語だかフランス語だかのカタカナ読みの店名は淘汰されないかね)、まるごとトマトの一品(さっぱりすっぱく美味なり)にシャルドネのワイン。無上の時間、などと悦にいっていると、窓越しに、おお、あの、平安神宮の大鳥居様が、シュールにそびえているではありませんか。
ただ、単に巨大な物体がそこにある。キッチュな朱の色も鮮やかに。2001年宇宙の旅のモノリスも尻尾をまいて逃げ出すぞ。キューブリックがこれを見ていたら、あの黒い石板は、朱の鳥居であったはずだ。
それにしても、この物体の、究極の意味の無さはなんだ。感動するぞ。ずっと見ていると「なんだかわからないが、これでいいのだ」と思えてくるから不思議です。バカボンのパパ状態。