チャリで赤坂。
距離は近いが、高低差のせいで、あまり足が向かない。
弁慶堀が結界。
帰り、新宿通りまで登り切ったあたりで、いつも、やっと日本に帰ってきた、という気分になる。
気配が全然違う。
アジアの油断ならない雑踏。
毎度おなじ繰り言になるが、
自分という環境に帰る安らぎ、が、わたしの日常を領しているので、その感覚を、こう、鮮やかに体現できるのは、たまには、よいか。
四半期に一度ぐらいは。
チャリで赤坂。
距離は近いが、高低差のせいで、あまり足が向かない。
弁慶堀が結界。
帰り、新宿通りまで登り切ったあたりで、いつも、やっと日本に帰ってきた、という気分になる。
気配が全然違う。
アジアの油断ならない雑踏。
毎度おなじ繰り言になるが、
自分という環境に帰る安らぎ、が、わたしの日常を領しているので、その感覚を、こう、鮮やかに体現できるのは、たまには、よいか。
四半期に一度ぐらいは。
数字をやっていると、いろいろわかる。
概して、ゆるやか。変動が。
日常の事象と数字は、かならずしも連動しない。
大きなこしらえが大事、ということです。
ここ数年の守備的なポジション取りが、ここにきて奏功している、ということか。
実質新年度入り。
メガネ忘れて、そのままプールはいったら、50メートルもたなかった。
取りに帰ってロスタイム15分ぐらいか。
距離より、肩だ、と思って上半身をつかったら、ペースみだれた。
肩は張った。
書類整理していたら、N響更新案内を発掘した。
6月中に回答しないと、口座引き落としされてしまうそうな。
ほっときゃ解約、ではないようだ。
そうですか。
今の時点では、さすがに、通い続ける気合はどこさがしてもないが、せっかく6月中だというんで、もうしばらく時間をおこう。
で。
それに触発されて。
少し長く、とりとめなくなるかも。
コンサートは、音楽を聴く場というよりも、まずは、前後左右にヒトがひしめきあっている空間、である。
これに耐えて、なおかつある程度の精度を保って、音楽のみを選って受信するセンサーでありうるか。
全然悲観ではない。
このところ、加速度的に、ヒトおよびヒトの集合への感性というか、が、いやましてきた、ようの思う。
これは進化、あるいは深化といえる。
静謐、ということについての。
静かになれば、ヒトの騒々しさ、けたたましさに敏感になるのは、自然の流れだ。
という領域に、たぶん、おれは、いま、いるんだと思う。
コロナの影響、いい意味で、も与って力あるかもしれない。
そのレベルの静謐の中に、ふだん、いる、ということの証左、ということだ。
このところ、NHKBSで日曜の夜中にやってる、バレーだのオペラだのの長尺を、毎晩みている、というか、流している。
ここから得られる感興は、もちろん、コンサート会場とは、まったく違うものだが、センサーとして、ヒトヒトバイアスを除去する作業は、必要ない。
それはそれで、ゴージャスである。
また、安寧、が確保されている。
千代田の夜更けは深閑としている。
そういうふうに、自分の環境をマネージ、なんていうカタカナを使っちゃったよ、整える、か、かんじに、これから自然になっていく、ような気がする、というより、すでにそうなっている。
もちろん、ある程度先を見据えた、というほどでもないか、眺めた、景色として。
ヒト、というのは他人の意で、ヒトでもある自分は一人称は、ヒトではなく、自分、とか当方と表記し、ヒトの集合からはずす。
違いは、ヒトは、わけのわからない、予測不能な存在、と定義されるが、自分は、多少は予測可能である。
なおかつ、唯一五感のセンサーを感受できる。
同じ音楽を聴いて、ヒトがなにを受け取っているか、あずかり知らない。
で、五感のセンサーである、これを認識しつづける、神羅万象に対する野次馬でありつづける、というのが、おいらのミッション、であるとすれば、これは全然インポッシブルではない。
天下無敵モード、という気もする。
そうなってきてる感じが、このところ、する。
これが、さっきいった、ある程度先を展望したイメージだ。
慶賀すべきことなり。
n響は、没だな、やっぱし。