五感の記憶について
15:10
午後いつものようにぼーっとしていると、いつものように、というのは、別に今が戒厳令だから、ということでなく、この7年、午後はいつもこうして過しているからこちとら年季がはいっている、いつものようにぼーっとしていると、いつものように様々なことどもが去来する。
お品よく言い換えると、がらくたが浮かぶ。
これ、ヒト関連過半を占める、統計取ってないので正確ではないが。
記憶のメカニズムがどうなのか、知識ないし、wikiとかにのぞきにいく気もしない。
ここで、ネットで探しにいかない、というのは、あえて知識のがらくたを増やさない、というのは、自分で考えるうえで、大事なことだと思うので、これは、心がけてやるようにしている、というか、やらないように、ふと浮かんだときに、とっさにネット検索しないように、しているので、このままいく。
たぶんサバンナの記憶で、こないだ、ここでサイにドつかれそうになったから道よけようとか、カバに鉢合わせされたから、とか、そういうことだろう。
危険回避の学習が記憶の仕事、だったからじゃないですかね。
ところでおれは今草原に棲息していない。
お堀端で籠城の身だ。
カバだの馬だの鹿だのに突然登場される必要はない。
記憶は、突然やってくるから、とっさにこれをどうする、というのは難しい。
昨日の夜中のスマホ地震警報のように、5秒後にカバにゴロまかれた記憶があなたに襲来するでしょう、という機能は、おれというヒトのスペックにはない。
やり過ごすんでしょうね。
以上は前提、少し長いな。
ヒトのことなどどうでもいい、毎度同じセリフだ、ハハ、どうでもいいが、本題は五感だ。
ヒトヒトに邪魔されて、いちばんだいじな、おととい午後室内に流れてきた空気の肌触り、とか、きのうの午後普段聞きなれない鳥のさえずり、ソドファミレ、というのがおれの聴きなし、だ、とかが蘇るのをが阻害されるのは困る。
おれの日常は、ほとんど、そういう五感のセンサーの微小な隆起で成り立っているので、ぼーっとしているときに浮かぶあれこれは、これらで構成されるのが本来だ。
だいぶそうなってきてはいる、というのはもっぱら五感の感知器として日々自転車で徘徊すること7年ですから。
テク、として、技術として、勝手に頭に浮かんでしまうことからもヒトを排除する、ということについて自覚的であってもよいかな。
と、15時8分ぐらいに浮かんだので書いた。
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