岩波「図書」10月号届く。
この雑誌のよいところは、主宰の、修行僧として警世家として双方の「モンク」属性をみたしてくれるところにある、と、いま気がついた。
前者は、たまにあればいいので、それも、内容に直接関係なく、触発されて、飛ぶ、その彼方になんらか豊穣な沃野があればいいので、どうだろう、四半期に一度ぐらい、そういうことがある。
今回はない、ないが、最初のふたつ、漢字っぽいのは、わりとおもしろだった。
後者、文句たれたくなるのは、毎号ある。打率100%。
今回は、冒頭いきなり平野啓一郎。
「ショパンの手紙」
抜くのもかったるいが。
とさ。
なかみはどうでもいい、眼目はもちろん「駆使」の一語にある。
これは、おれの手に余る。
サンドウィッチマン伊達につっこんでもらおう。
「自分に「駆使する」なんて言い方するかバカ」
「駆使」は一人称になじむか。
駆使とは。
「機能、能力などを思いのままに自由自在につかいこなすこと」
だそうだ。
これをヒラノの駄文にあてはめると、
「おれさまは、文献を自由自在につかいこなした」という文意。
「なに自慢してるんだおまえ、バカじゃないの。」
と伊達の口調でつぶやいて、この件は、ケリにしたい。
ブンガク者とは、実にこれだよ。
いう気もなかったが今思いついたので仕方なく書くが、月刊のほうの文春で、グランドピアノのうえに土足で棒立ち、バカ面をさらす村上春樹。
ブンガク者のかがみだ。
ヒラノは、現行段階でチェックしない編集もバカ。
岩波って辞書だしてるとこじゃなかったか。
あと、今回の編集後記もお手盛り楽屋落ち。
「岩波文庫的」の「的」がちょっとしたいたずら心なんだと。
「気持ちは岩波文庫という遊び心を共有」していただきたいんだとさ。
羞恥心を捨ててはじめて言えるセリフだ。
ヒラノムラカミ岩波編集の三者に共通するのは、まさに、この羞恥心の欠如、に他ならない。
羞恥心はおれにとっては必須アミノ酸だ。
こいつらは、どうも、そうではないらしい。
生体の組成レベルで違うんで、いつもの結論、そっちはそっちでうまくやってくれ、に、今回もいきつく。
これでいいのだ。
すっかりよい気候になりました。