◆日本の一番長い日
リメイクについて考えてみたい。
リメイクがダメなのは、見る側のオリジナルへの思い入れが強すぎるせいか。
それとも、純粋に、その映画の出来がカスなのか。
リメイクする以上、元の作品に対する何らかの評価があって、それを凌駕しようと思って挑むのであろう。
☆もともと優れた作品の骨格がある、という前提
☆おれなら、こうやる、という元のを超えてやるぜ、という構想
と、リメイクの動機をいま決めた。
であれば、いい作品に仕上がる条件は、ばっちりそろっているのではないか。
なぜダメか。
コーエン兄弟ともあろうものが、なぜすべるか。
「追跡」は、おれは、コーエン兄弟を先にみて、あとからジョンウエインのをみた。
だから、リメイクをみたとき予断はない。
全然面白くなかった。主人公の女の子は生意気なだけだ。からむオヤジもなんというんでしょうね、新劇くさい、というか、アクターズスタジオみたい、というか。
で、そのあとジョンウエインをみて、膝を打った。そういうことだったのか。
この映画を論評する体力がほとんどなくなった。
役所広司はいつもどおり役所広司を演じていた。阿南でなく。
歌舞伎は腹を切るのにやたら時間をかける。率直に、だれる、かったるい、とおもう。実際、母親と忠臣蔵を見に行って、当時の勘九郎が、舞台の中央で白装束で、延々もそもそやっているのを見続けるのは、きつかった。
だがおれはその苦行に立派に耐えた。
そのおれさまをして、昨夜の役所の猿芝居は、意味なく厠に立つ、という行動をとらしめた。おれを物理的に「動かす」原田監督の腕っぷしに、脱帽だ。
あと、松坂は終始怒鳴りまくっていて演技どころの騒ぎじゃありませんでした。
額の青筋が笑えたのが、救い、おれにとっては。
何故60年代がよいのか、という魅力的な問いも、いま思いついた。
なぜ、大冒険、ミニミニ大作戦、大砂塵、がいいか。
そりゃ無邪気だからですよ。お気楽、ということですよ。
もともとおバカな中身だから、たりめえだろ、という反論も聞こえる。
そんなことは、ない。
シリアスな内容を、もっと深刻にして追い打ちをかける、野暮の骨頂、というのが、東西を問わず、多すぎるよ。
「日本の一番長い日」をお笑いでやってみ。
阿南はもちろん植木屋だ。
鈴木貫太郎は森繁。
侍従長は小林桂樹。
やんごとなきあたりは、無論タモリだ。昔、突然かしこきあたりのモノマネを始めることがあって、しかもそれが全然似てない。あのしぐさでやる。
だれがメガホンとっても、今回の原田以外ね、傑作に、なってしまうこと、おれが請け負う。