啓発舎

マジすか? マジすよ

午後四谷のスタバでぼーっとしていたらとなりが女性の二人組だった。
ラテン系とおぼしい若い女性と年かさの日本人。
場所柄、留学生と指導教官、という趣。
会話は日本語ではじまるが、話し込むにつれ、スペイン語かな、のやりとりになる。
これが、ぼーっとした当方の脳みそに直接響き、心地よい。
サルサみたい。
一般にラテン系人々が話し好きなのは、会話の内容もさることながら、言葉を発することが、歌う、奏でる、とほとんど同じ行為なので、合奏、あるいは二重唱を楽しんでいる、ということによるのであることか、としみじみ思った。
スペインにしろ、イタリアにしろ、ラテン系の言語は、普通の会話も音楽になる。


と、こうするうちに、時間がきたのかさっと席を立ち、かっこよく去っていった。


で、次も女二人組でこれは二人とも日本語。
これがさっきとは真逆の極北、いきなり例のPTA趣味のサークルばばあの抑揚でけたたましく応酬を始めたので、素早くイヤホンを装着する。
わしも、最近はこの技に磨きがかかり、だいたい30秒ぐらいでバリアを貼ることができるようになったわい。


で、難は逃れたのだが、さすがにすこし考えた。



最近のクールジャパンわっしょい日本万歳の風潮に辟易、は、何度書いたかわからないから省略。
今回の運動会で思ったのは以下。初めて書く。


羽生くん美しい→これを、まず、これを「日本」固有の美しさです、と一般化する→おー日本ワンダフル→ところでアタシも日本人だ→アタシにうっとり。
で、結局、自分にうっとりにたどりつく、という構造。


美しいのは羽生氏個人なので、これを「日本」に一般化してよいか。
仮に日本に底流する精神のいくばくかを羽生氏が体現しているというのが真実であったとして、あくまで仮にだが、「日本」にたゆとうかそけき美意識を、「アタシ」が共有すると、誰が認定したか。


などつっこみどころ満載の論法だが、これ、あたっているのではないかね。
羽生にうっとりばばあのほとんどに。



あるときは片目の運転手、またあるときは、多羅尾坂内、してその正体は、といえば、これは決して大和撫子などではなく、スタバでわめくそこらのばばあ、に他ならない。



さっき、二組目の二人組を「日本人」と特定するのを注意深くさけたのは、こんなみにくいやつらが「日本人」か、という思いも少しあった。
日本語をしゃべりさえすればどんなに小汚くしゃべくろうが日本人か。


でもまあ、たぶん国籍は日本であろう。
だとして。
こいつらをクールといえるか、きれい、といえるか。



というわけで、この国をひっくるめてビューティフォーとかわっしょいするのはいいかげんやめようよ。
ここまで醜い物件がそこら中にごろごろしているのだから。


などと悪態になったが、ラテンのいい音楽の余韻は残っていて、割と上機嫌です。