啓発舎

マジすか? マジすよ

きのう書いた箱根の椿事、あるいは珍事について。


人間はサバンナの生き物だ、ということを目の当たりにした、ということです。
食うか食われるか。自分の生存が究極。


復習しよう。
◆一般的な社会通念をあてはめると、子供連れに分が悪い。
そりゃ、そこそこの温泉旅館で、大音声、というのは、たとえ子供連れであったとしても。
後楽園球場だったらまだしも。
◆子供連れ一味も、当然それは承知している。会話を漏れ聞く限り、子供がいればなんでも許される的天動説の人種ではなさそうだ。
◆だから、理屈に持ち込まず、居直りを決め込んだ、ということが、まず考えられる。
◆だが、現場で受けたかんじは、そういうロジカルな戦術ではなく、もっと、なんだろう、底冷えのするような、相手を、人と、というのは語弊がある、生き物と認めていない、存在レベルで否定、というのは意思表示の意味があるから適切ではないな、認識しない、そういうかんじだった、間違いなく。
◆では、その母親どうしは連帯していたかというと、現下の騒動には対処しているが、子供連れどうしが仲良くやっているか、というと、そういう雰囲気ではない。
◆基本、万人の万人に対する闘争、状況ではあるが、それをすべて所与のものとして、おのれの生存のためにそれぞれがそれぞれのなすべきことを淡々とこなしている、というかんじ。
◆荘厳の気が漂う。


こういうものをみせられると、ヒューマニズムだのなんだのは、全部ふっとぶ。
それを目の当たりにした。

実は、それまで、おれは子供連れグループにはそれほど悪い印象を持っていなくて、よくある私のこどもかわいいでしょううっとり、ではなく、自分の子供にも普通に手荒な、それぞれ虚飾のない母子関係をあらわにした一団だったので、やれやれとは思ったが、しかもトーンクラスター的騒音だったので、意味のある言葉の羅列と認識せずにすみ、工事現場と思えば聞き流せた、のだった。


だから、きのうの件は純粋な野次馬でいられた、虚心に事態の推移を見守ることができた。


人間と人間というのは、こういう風に「存在」を無視しあえる生き物なのだね。


集団の本質は、これだ。


「こっち」を個別に拾うしかない。
明るい気持ちになる。