昨日は、会議には顔を出すも、その後の新年会は欠席。
青い空白い雲とは疎通するが、人とは垣根がある。
一人称、というのは、一神教の概念だと思う。
神を措定した時点で、神に対する我という、主客対立する構造が生じた。
というのは図式的だが、現実に、そういう考えが、しみついている、西洋は、と思う。
いま、比較文化論みたいなことを云々する気はないが、以下いいたいことのため上の前提は必要。
たとえば、昼でもほのぐらい樹々のなかにいると、私、の概念は必要ない。樹も石も苔もおれもみんな一緒。
西洋は、そういう環境でも常に「神」がいるから、個の呪縛逃れられない。
いま、西洋、と言ったが、この国でも、一神教がついに根付かなかったこの国でも、習慣的に、個を措定する癖がついている。
別にそんなことはかまわんが。
個は、おれは別に必要ないと思う。
が。
昨日のような、他と交わる、しかも、それぞれがどういう奴かろくに知らないやつと言葉を交わす立食という形式は、それぞれにおのれの「個」を設定して対峙せざるをえない。おれにいわせれば正気の沙汰とは思えない。
それぞれに対して個で武装するのは、そうとう体力がいると思う。
やってられませんね。
それが必要であれば、しかし、やむを得ない。
dけど、世間の人と人のやりとりは、ほとんどが不要でしょう、志ん生師匠の名言を借りると、なくってもなくってもいい、ものです。
というわけで、今日は終日青い空白い雲。