啓発舎

マジすか? マジすよ

我箱根より無事生還セリ。

宿で他にすることがないので、テレビ。
今時地上波しかはいらないのもどうかと思うが、まあしかたがない、地上波民放は絶対みないので、いきおい、NHK

プロフェッショナルの流儀。
樫本大進


面白かった。すこし考えた。


ここで、主宰より、すべての人間に適応できる公理をふたつ発表する。

◆人間の批判能力は、本人の能力の1000倍。
◆宮仕えの仕事の95%は他人のあげつらい。
以上。

二本の平行線がずれどこかで交わることがあっても、上の公理は、どんな人間にも必ずあてはまる。例外はない。


で、ベルリンフィルだが、世界レベルの手練れの集団だ。
ただでさえ優れた演奏能力の1000倍のレベルでやいのやいのいう連中を束ねるのはただごとではない。
苦労がしのばれる。

おれの素直な感想は以下のとおり。
なんでそんなことする。
やめとけよ。


樫本氏は、実演は聞いたことがないのだが、ソリストだったのは知っている。
ベルリンフィルコンマスになったのも、なったときニュースで知った。
そのときも、もったいないな、と思った記憶あり。


ソリストとオーケストラのプレイヤーが、どれだけ違うか。
ギャラとか、そういうことを言っているのではない。


精神の自由、について述べたいのだ。


ついにおれも、精神、とか、自由、とか、いままで注意深く避けていた言葉を遠慮なく遣うようになり果てたか。


コンマスに裁量があるとはいっても、せいぜい新世界のボーイングをかえることぐらいだ。
仮に、あくまで仮にですよ、樫本さんの音楽に対する感受性がおれとそっくりだったとして、エッシェンバッハが来たら、パーヴォがきたら、どうする。
エッシェンバッハの棒で弾くのは地獄ですよ。
すまじきものは宮仕えかな、という金言は、もちろんこの世界でも妥当する。


ところで、コンチェルトは、どんなに力のある指揮者でも、基本は、独奏者にあわせる。
ソリストに敬意を表しているわけでは必ずしもなく、そうでないと崩壊する、という現実がある。
指揮者がテンポを強引に動かして、本番が崩壊しかけた経験は、おれにもある。


ソリストは、おれさまです。

諏訪内さまも、ミドリさまも、神尾さまも、庄司さまも、みんなおれさまだ。
ここで女性の名前しかでないのは、ほんとに言いたいことがある、あたしはこれを表現したいのよ、というおれさま力のあるヴァイオリニストは、いまこの国では女ばかりだからだ、おれにいわせると。


おれさまには、自分のしたい放題をする自由がある。
というより、私が、おれさま、という言葉をつかうとき、「自分のしたい放題を好き勝手にする奴」という意味でつかう。
おれさまの定義は「ご意見無用おれはおれだ」という最近下火の暴走族とかヤンキーのモットーと見事に符合する。

これこそが、精神の自由である、というのは正確ではないな、「精神の自由を確保するための土台」というべきか。
いくらおれはおれだ、と言っても、じゃあ、その、おれってなんなの、という中身がないと始まらない。
これがとりあえず自由を獲得した奴が直面する事態で、ここからは本人のあれやらこれやらが始まる。ちょっとその話は今回は、おく。


それに対して、オーケストラプレイヤーは、これもいまどき珍しい、真正の奴隷、であります。
ご主人さまの命令のままに動く。


なぜ、こんなことをくどくどいうかというと、当然、自分に引き付けているからだ。


おれが4年前、もう4年もたつのか、に年季が明けて奉公人の身分を抜け出して、最初に感じたのが、自由の空気のおいしさだった。
ほんと。
これは日が経つにつれなれるどころか、その美味の微妙なニュアンスが折に触れ、幾度となく新たな気づきとともに新鮮な感覚として受け取ることが、今日まで続いている。
なんか柄にもなく書生っぽい文章になったが、ほんとに思ったことを書いた証拠だ、韜晦の操作なし。


樫本よ。
そんなに自由が辛かったか。


そりゃ、ヴァイオリン一本で全世界に立ち向かうのは、生半可な気合いでは無理だ。
壮絶なエネルギーが要る。
諏訪内の面魂をみよ。


だが、それで無限の自由が獲得できるというかけがえのない対価がある。


自由からの逃走、と即断するのはやめておくが、いまからでも遅くない、そんな世界でうるさい連中の取りまとめ役なんか、やめて、自分の精神の自由がどこまで通用するかに賭けるのが、男の生きる途、ではないだろうか。


不肖おれなんかも、獲得した自由を無駄にせず、男の生きる途を歩んでいる。
おれの「男の生きる途」はこのブログを書くことだ。
与太と言わば言え、精神の自由を賭して日々悪態をついている。


わけねえか。
ハハ。