◆N響からはがきがきて、25日の定演の曲目を変更するといってきた。
ブラ4だって。もとはなんだったか書いてないので、いま調べたら、モーツアルトの初期のPコンだった。
変更自体はよくあることで別に構わないが、結果、出来するプログラムには、ちょっとずしんとくるものがあるぞ。
前半 ブラ4
後半 ブラ1
寡聞にしてこんなプログラムは聞いたことがない。
演奏会で聴いたことがないのはもちろんだが、こんな構成でやった実例を仄聞すらしない。
前半に2か3をおいて、後半1か4、というのはよくあるが。
今回は、別に、3と2というプログラムがあるので、前半に2も3もおけなかったという事情が、おそらくあるにしても。
指揮はエッシェンバッハ。
やるほうもご苦労さんだが、聞くほうも重たいぞ。
それでもやるんだったら、おれは1、4の順のほうが据わりがいいと思う。
◆日曜のN響テレビの後半で、マロと広上のオヤジ漫談があった。前回好評だった、と。
おれも見たが、おやじが普通にとりとめのない話をしてる風で、確かに面白かった。
今回は、マロ、広上のレッスン風景。
マロは、小学生のおじょうちゃん相手に、音程とかはどうでもいいから感情こめて、みたいな、よくある指導をしていた。
おれは、これには異見がある。
指揮者がよくこれをやる、ぼんくらな奴は、特に。
「いまのフレーズ、なんていうかなあ、アベがシェーのポーズをしてるみたいな、わかるよね、じゃあ、頭からもう一回、・・・(やらせる)・・・・、ほら、さっきと全然違う、ブラヴォーです」みたいなかんじ。アベのシェーは、たとえば、ですよ。念のため。
もちろん、こっちは、知るかバカスケ、無視してさっきと同じように弾くだけよ。
感情こめては、独りよがりになることが、非常にしばしばあるのですね。
広上が悲愴四楽章の出だしをやると、そこは不安だ、と。
確かにチャイコは細工をして、ヴィオラからうえは出だしはビビるが、果たしてそうか。
この楽章は不安か。
おそらく作曲者も、そういう不安定さ、片付かなさみたいなかんじは狙ったと思うが、結果でてくるのはお涙頂戴の愁嘆場だ、かなり安手の。
と、おれは思う。
この曲は、最初に聴いたときから今に至るまで、ずっとそう。
アマチュアオーケストラの定番だから、おれも二度やったが、終楽章は、二度とも、弾いていて、わかったわかった早く終わろう気分でした。
その前の三楽章でさんざん労働した、ということもあったかもしれない。
いや、それはおれがつむじ曲がりなだけで、大方の聞き手は、ハンカチ濡らして聴いてるのかもしれない。
生きる不安におののいているかもしれない。
おれはチャイコで感涙にむせべませんね。笑うのはあるけど。
やったのでいうと、チャイコン一楽章の第二主題がでてくるところで、本番、独奏者がわけのわからないルバートをしまくって、伴奏のおいらたちとあわず、おれらのピチカートがアルべジオに、ポロポロロンになったところは、本番中だったが、ほんとに笑った。指揮者の鬼の形相を見て、また笑えた、これは内心で。
好きだけど、チャイコはやっぱりバレー、それもくるみ割りとか、意味などありませんの究極、みたいなやつじゃないですか。いいのは。
音楽は、感情とあまり結びつけないほうが、おれは、いいと思います。
マロ広上のやりとりに触発されて書いた。おやじ二人の漫談は、それはそれ、充分面白かった。