さっき半蔵門からお堀端を下って帰ってきたのだが、風が秋でした。
こういう、大気の流れに接する、ということだけで存在が一杯に満たされるので、他になにかをしたり感じたりする余地がなくなる。
豊穣という以外言葉が思いつかない。
静謐というのは、そういうことです。
なんでもない時間の流れ、それが続くことで、ほんのわずかなことが存在を満たす、そのうち、その、ほんのわずかが、さらに微細になる。
何でもないことということ、そのものが、静謐である、ということ自体が、存在、というのは、自分か、自分を含む時空間そのものか、と同化する。
人と会った翌日、は、こういうことが、よくある。
人間界に出張した自分が、それはそれで五感が活性化してよかったのであるが、静かな、普遍的な時空間に戻ってくる、と、こういうかんじになります。
もう、今回の人生はこれがゴールでいいので、いつお迎えがきてもOK、という午後の時間がすぎる。