暑い。お芸術のはなしでもするか。
テレビだが、こないだのN響のおまけでやった中国のピアニストがよかった。
子供の情景。
水みたい、でした。
クラシック音楽業界は、レッテルを貼るのが好きだ。
人種民族で決めつけることが多い。
ラテンの血、とか、ドイツの正統派、とかね。
当たっていることもある。デュトワなんか、おフランスとしか、おれも言いようがない。
中国はどうか。
最近やたらに出てくる中国の若手ぼくちゃんピアニストを総称するキャッチフレーズはあるか。
ひとつ言えるのは、ドイツならドイツの伝統から自由であることで、オーセンティックでないことによって、かえって個性を出しやすい、ということは、ある。
これぞ「中国」、爆買い魂、みたいなのがどうしてもあふれ出す、ということであってもいい。
ところが、ランランにしてもチョソンジン、これは韓国か、にしても、今回のぼうやにしても、全然それがない。
みずみずしい、洗練、気品、としか言いようがない音楽性が、共通項です。
キャッチでいうと、ここで出身国を伏せて映像と音だけで判断すると、なんでとりとめもなく書き続けたかというと。
日本的。
という言葉がどうしても浮かんでしまうのよ。
東洋的、ではない。
あくまで、日本的。もっと限定した概念。
中国とか韓国の人に、おまえは日本的、というのは、失礼なことだと思う。
おれも、自分で言っていてちょっとこっぱずかしいところがある。
だが、日曜日に、聞いた、見た子供の情景の「水みたい」な印象は、なんか、和ごころ、に、容易に結びついた、わたしのなかで。
しずこころなく花の散るらん、というかんじ。
貴船の川床で、あたりを領する水の音。
あえかな気配。
こういう雰囲気を、おれは日本的、というステレオタイプで、紋切り型でくくってしまう。
すくなくとも、そういう、かすかな、ほっとくと虚空に消えてしまう、なにかを感受するこころがなくては、絶対に表現できない。
あの若さで、なぜ、それがだせる。
上海に、そういう環境があるのか。
中国のピアニストにたおやめぶりを見た。
という日曜日でした。
ごちそうさま。
やっぱりとっちらかったな。