啓発舎

マジすか? マジすよ

サマセット モームであることは間違いない、ガキのころなのでどの作品のどの文脈かは忘れたが、文章を書く要諦は、上機嫌で机に向かうことだことだ、というのがあった。国語の授業なんかよりこの一言はよほど効いた。
ところで、このところ、どうみても能天気とはいえない状態なのは誰がみても明らかだ。たまに、モームの教えに逆らって陰々滅滅で書くとどうなるか、実験する。ひまだし。



身捨つるほどの祖国はありや。


というのが、このところのおれのテーマです。
別に宿題もらったわけではない、なにかにつけこのことが浮かぶ、どしても、というだけのことに過ぎない。


世界中、国単位でつっぱりあうことが激増して、この国でもおこりんぼの産経おやじが、毎日楽しそうにあーだこーだ言ってますね。
これに凄い違和感がある。
じゃあ朝日はどうか、といえば、もっとやだ。偽善は蕁麻疹の原因だ。


要すればイズムのはなしではない。皮膚感覚。
どうも、のれないんだね。
永ちゃんのコンサートで、まわりが盛り上がっているのに一人醒めているのは折角金払ってあまり気分のよいものではないだろう、行ったことないからわからないが。
おれも、乗っかれるなら乗っかりたい。
しかし、どうも。


集団への帰属意識がこの国の一般ピープルに比べて少ない、というのは薄々感じていた、いまでも、しかたなく集まりに連なると必ず隅っこに位置取りする習性がある。昔からそうでした。


ではあるが、この国に伝わる美しく暮らす技術は大好き、というより、この島国に流れる時間とか、食い物とか、鳥だの花だの月だのは、当方にとって必須アミノ酸といえるので、すねてばかりもいられない。

それがこの国とおれとのかすかなつながりであったのだが、いま、グローバル化だか東南アジア化だか、単に醜悪であることに対する嗜好が強くなっただけか知ったことではないが、醜くなることにかける執念、という言葉を選ぶしかない情熱で、この国が蚕食されている。


となると、おれなんかの居場所は、もう、ないです。


爆買いのせいにはできない。


言葉もそうだ。
若い女の醜いしゃべりかたは、みんな言ってるから別にどうでもいいが、おれは、音としていちばん醜いのは、PTA年代の中年女のわめき合いだと思う。景色としていぎたないのは、もちろんだが、聞こえてくる「音」として。

イントネーションは、しばらく前から若い女のアナウンサーが妙に、サインカーブみたいな、中国深山山水図のような、極端な高低差のある節回しが耳について、ナレーションつきの番組とかが見るに、いや、聞くに堪えなくなってきていた、実は。
人工的な操作は、顔までにしたらどうか。声まで抑揚までグロテスクに加工するか。


年とって世の中の変化に対する適応力がなくなった、というだけのことなのかもしれない。


しかし、言えるのは、上の現象が、どうも、貧しさ、これは経済的という意味、心の貧しさまえふくらますと収拾がつかなくなる、要は貧乏とお手てつないで鼻歌まじりで奈落の底へ、というイメージね。


身もふたもない話だが、金まわりが悪くなることと、顔を切り刻むのと、コ汚くおめくのと、街が原色になるのと、メディアがばかになるのと、全部連動している気がする。


寺山修司とは全然違う意味で、身捨つるほどの祖国はありや、と、しみじみ思う。



好きなようにしてくださいおれは寝て暮らすよ。