啓発舎

マジすか? マジすよ

◆きのうのN響。テレビ。
 デュトワマメールロワ。
 客席で目の当たりにしたおフランスの香気は、映像でもかなり再現できていたと思う。
 終曲のふわふわ感はテレビでもそのニュアンスのいくらかは味わえる。きのうみた人は幸せ者だ。
 ただ、演奏とは関係ないが、デュトワは、前から言ってるがちょっとお下劣なところがあって、きのうの発見は、スコアのページをめくるとき、指なめるんだよね。
 カメラが、何回か抜いていた。ことさらに指舐めの動作を狙ってたのではないか、と思うほど。
 演奏とは関係ないが。
 運命は蛇足だった、テレビで見ても。
◆音楽の友、レコード芸術の最新号を図書館で。
 音友の演奏会評は、一応毎月チェックする。
 おれも行ったN響レスピーギのコンサートを濱田、のあとは、えーと、痔瘻、じゃないよなさすがに、なんかジロウと読める名前の人が書いていた。
 指揮者と作曲家の奥さんが友達でどうのこうの、というゴシップを延々書いて、肝心の演奏については、最後に一行、演奏は特記すべきものだった、と。それだけ。
 演奏会評だぜ。
 今更この筆者をあげつらう気はない。無駄だ。
 編集ですよ問題は。なぜダメ出ししない。
こんなの載せたら、赤っ恥だよ、出す側の。
 おれのN響評は、お品がないのは認めるが、誠実だ、自分で言うが。
 その日に感じたことを、多少、かなりか、アルコールははいるものの、そのまま吐き出している。
 右見て左見て書かない。
 誰がなんと言おうとおれはおれだ。
 ま、そりゃ、身過ぎ世過ぎではないのだから、これでお鳥目頂だいしているわけではないのだから、なんでも好き勝手いえるといわれりゃそれまでだが、五感でつかまえたものをなるべく虚心に定着する、というのは、自分でも、こりゃ、なかなか一筋縄ではないわい、と思うときがある。
自分で文章を書く醍醐味は、こういうところのあるので、書いてみて初めて、感じる、ということと、それを文字にすることの微妙な、紙一枚はさまる別物感がわかる。
音楽は、とくに、クラシックはさらに顕著に、音楽以外の能書きだの雑音だのがあって、それに邪魔されずに五感の震えをホチキス留めするのは、なかなかだ。


もの書きは、その辺よく心したほうがいい。
五感を文字にすると、貧しさ凡庸さがばれるぞ。
福田和也になったらおしまいだ。
今日読んだ濱田ジロウさんは、そのあたりを知悉しているから、お逃げあそばれたわけですね。