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まずロイターのコラム

Special | 2017年 01月 7日 13:51 JST
コラム:「人にやさしい経済」へ4つの誓い、第1歩は脱GDP
 1月3日、英国が40年間に及ぶEUとの絆を断つことを国民投票で決定し、ドナルド・トランプ氏が米次期大統領に選ばれたことは、既存の社会的・経済的エリート層に広がっている不幸を示す最も顕著な例である。
[ロンドン 3日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 世界各国の主流派(エスタブリッシュメント)が守勢に立たされている。英国が40年間に及ぶ欧州連合(EU)との絆を断つことを国民投票で決定し、ドナルド・トランプ氏が米国の次期大統領に選ばれたことは、既存の社会的・経済的エリート層に広がっている不幸を示す最も顕著な例である。
エリートたちは怒れる人々の要求にもっと対応していくと約束してはいるものの、容易な話ではない。
本稿では、経済をもっと人にやさしいものにしていくための4つの「新年の誓い」を示そう。
まず、国内総生産(GDP)の話から始めよう。いや、実際には、もうGDPの話などやめよう、ということだ。このような恣意的な指標の改善に執着することは、特に先進諸国においては百害あって一利なしだ。実質GDPは成長することが常に当然とされているが、人々が抱く大きな経済的懸念をほぼ何も捉えていない。
GDPが成長していても、米国における雇用の不十分さと不安定さ、引退後の期待外れの低収入、巨額の医療費に対する懸念といったものはまったく測定されていない。最貧困層の苦境や最富裕層の強欲はGDPには計上されない。さらに悪いことに、GDPの上昇が実際には社会的・精神的な幸福とは反対の指標となっている場合さえある。薬物乱用や家庭崩壊への対応に投じられる費用の増大もGDPを成長させるからだ。
さらに根本的には、GDPを増やし続けることへの執着は、すでに開発が進んだ先進国においては不幸につながる要因なのだ。財・サービスによって得られる満足や安心感は、いずれもすでに大半の人に行きわたっている。確かに、所得配分がもっと公平になり、設備投資が増えれば、雰囲気は改善されるかもしれない。だが、より多くのモノをひたすら積み上げることへの最良の解毒剤は、もっと精神的な向上を伴う目標を追求することなのである。
昨今では、そうした刺激が枯渇している。ここから、主流派の課題における2つめの誓い、「疎外感との戦い」が導かれる。西側諸国において宗教的信条が任意の選択の対象になって以来、社会評論家たちは、より高い目的意識と基準が広い範囲で失われていることを懸念してきた。生きるための、そして恐らくは死ぬための大義が何かしら無ければ、人々は結局、落ち着かず、惨めな、場合によっては暴力的な存在になってしまう。
政治家や企業経営者が神の代わりになるとはとうてい期待できない。だが彼らは少なくとも、社会的な深い絶望が、20世紀において2回の世界大戦をもたらすに至った過激なナショナリズムを過熱させる危険性を認識すべきである。
トランプ氏やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席といった新世代のナショナリストたちは、自国を偉大な存在にするために平和的な手段を選ぶことで、世界に大きな恩恵をもたらすことができる。宇宙空間の開拓、環境破壊との戦い、スポーツにおける優秀さの追求は、軍事力に比べてはるかに好ましい道である。
精神的な向上につながる理念を探し求める一方で、リーダーたちは何かもっと身近な理念に意を注ぐかもしれない。3つめの誓いは、そうした身近な理念の1つ、「コミュニティーの強化」だ。昨今では、コミュニティーという言葉には、「壊れた」「損なわれた」「孤立した」といった形容詞がついて回る。コミュニティーの喪失はリアルな問題だが、その一方でコミュニティーが持つポジティブな可能性も大きい。家族、友人、親戚、隣人関係、信仰は、非常に満足感の高いかたちで人々を結びつける。
大企業もこれに貢献できる。自社の従業員を固い絆で結ばれた一族のように扱っていると主張する企業もあるが、通常は、成長と利益の追求がそうした方針の妨げになる。とりあえずの改革としてふさわしいのは、法外な(そしてコミュニティーを破壊する)幹部報酬を削減することだろう。
エクソン・モービル(XOM.N)のレックス・ティラーソン会長兼最高経営責任者(CEO)の年間報酬は、この10年間、平均2400万ドル(約28億円)だった。彼の後継者の報酬が、20万4000ドルにずっと近いものになれば、石油業界の巨大企業であるエクソン・モービルが一致団結したチームとして機能する可能性はもっと高くなるだろう。
20万4000ドルというのはティラーソン氏が国務長官として承認された場合の報酬だが、これは米国の平均的な家計所得の4倍である。生活を支えるには十分だが、他の従業員が「経営者も自分たちと同じ世界に生きている」と実感するためにはまだ多すぎるくらいだ。
数え切れないほどの省庁を抱える現代国家の政府、そして規則でがんじがらめになった巨大な官僚機構を擁する福祉国家は、伝統的なコミュニティーを損なうような構造になっている。米国では共和党がこうした状況を変えると主張することが多いが、こうした確立された歴史的トレンドを逆転させるには苦労するだろう。
トランプ氏をはじめとする各国のリーダーたちは、まず、4つめの誓いを強調することから着手すればいい。それが「地方による意思決定」である。補完性の原理、つまり政治的問題にはできるだけローカルなレベルで対処すべきであるという考え方は、EUのマーストリヒト条約で確認されている。しかし現実には、ほぼ正反対のように思われ、だからこそ、英国であれほど多くの有権者がEU離脱に賛成したのだろう。
実際、どこの国の政府でも、過去2世紀にわたり、国民との距離は着実に遠ざかってきた。中央集権化は規模の経済という点で大きな効果をもたらす可能性があるが、昨今では、そうした効率性は、これまで犠牲にされてきた人間的な尺度に比べれば価値が低いのではあるまいか。
新年の誓いというものは、立てたとたんに捨て去られることが多い。GDP重視をやめ、平和的な方法で疎外感に対処し、コミュニティーを強化し、補完性の原理を重視する──。これらは現職のリーダーたちにとっては荷が重すぎるかもしれない。
だが、彼らの後継者たちが、より慈悲深い経済の追求という点で、もっと想像力豊かで有能でない限り、2016年の政治的な混乱は、さらに悪い事態への導入部でしかなかったということになりかねないのである。

今日は長くなるかもしれない。
そっちこっちは国境を越える。


考え癖という言葉をよく使う。
ある事象に対して、こういうアプローチでこういう方向で考えてしまう、ということ。
育った環境とか身過ぎ世過ぎとか周囲の人々とか、あるいは、多少は自分の個性とかで、だいたいものの考え方って決まってくる、と思う。
当然、国、の要素は大きい、はずだが、最近、海外の方の言うこと書くことに、しっくりすることが多い。
なんか、体液レベルで。理屈でなく。
このコラムも、そう。


筆者はイギリス人のようだが、ひょっとして、そろそろ黄昏年齢で、普通に頭でっかちの教育を受けて、一通り人間およびその集合を見て、五感の感受性もそれなりで、日常を支配するの気分は諦念、唯一好むのは静謐で。
という、おれと似た奴だと思う。
世界のどこにいようと、自分みたいな奴はいる。
ときどきこの国の言説に違和感を覚えると、こういう人がこういうことを言うのは休まる。
イギリスあたりには、こういうおやじが、たまに、いそうだ。


GDPを放棄するとじり貧で、とか、そういう議論はどうでもいい。
上のコラムの眼目は、挙げて「三つめの誓い」にある。
ここでいう「コミュニティー」というのが、当方の言う「こっち」とほぼ同義。
とくに、以下のくだり「コミュニティーという言葉には、「壊れた」「損なわれた」「孤立した」といった形容詞がついて回る。コミュニティーの喪失はリアルな問題だが、その一方でコミュニティーが持つポジティブな可能性も大きい。家族、友人、親戚、隣人関係、信仰は、非常に満足感の高いかたちで人々を結びつける。」と。


この国でも、既存のコミュニティーには、損なわれた、孤立した、ものが結構ある。
学校とか地域社会は、既に相当怪しいと思う。
血縁とか地域とかにはあまりこだわらないほうがいい。
私のそっちこっちは、地域も、血縁も、国籍も、時代も、関係ないです。
たとえばカエサルおじさんも、私の「こっち」だ。兼好法師もそうだ。


親和力、皮膚感覚みたいなもんですかね。
理屈は介在しない。
もちろん生身の人間も。

「こっち」は自然によりそうから、日常は、「そっち」を排除、というのはめんどくさいので、スルーすることが、基本動作になる。
要は、そっちを断捨離する。
9時5時の稼業から足を洗って即座に開始したのが、その稼業にまつわる人のからみを切りまくることだった。
二年かかった。
次に「うーん、なんとなく」という、億劫だなと思うだけでそういうしがらみもこれも悉く切った。
で、いま全然なにもないか、というと、これがそうでもなくて、さっき言ったように「こっち」は自然によりそってくるから、ご縁は結構つながっています、「こっち」とは。
我ながら、少し意外。

このコラムのおやじ、だと思う、なんかも勝手に「こっち」だと、今決めた。


さんま食って「こっち」としみじみやって、静かに暮らせば、あとはお迎えを待つだけよ。