啓発舎

マジすか? マジすよ

晩年唯好静
万事不関心

の「不関心」をどう理解するか。


いまざっと検索グーグルしてみたが、すべて、関心がない、という解釈。
予想どおり。


そうですかね。
関心がない、というのは、実は、能動的な表現だ。
あっしには関わりのないことでござんす、といって、今現にすぐそこで起きているいざこざを、積極的に拒絶する。
木枯し紋次郎ワールドだ。
これには腕っぷしが要る。


当方の解釈は違う。


まず、これを心に関わらず。と読み下す。


そのココロはこうだ。
外部の情報は降ってくる。
それが自分にひっかからないだけのこと。
徹底的に受動的。
拒否すらしない。


おれの口癖、というのか、書き癖、というべきか、であるところの、「どうでもいい」は、まさにこれです。


そっち、こっちでいうと、王維さんがとことん「こっち」なのは、まさに、この「どうでもいい」を共有できるおじさんだからです。


ほんと、どうでもいいわ、万事。

どうでもよくないのは、今日ツールがお休みだ、ってことだけですよ。
ヘリから見るおフランスの田舎映像に接することができない、ってことだけです。
早く明日の20時55分になれ。