◆四谷の物件が一般開放されるとの報に今接し謹んでお悔やみ申し上げる、ほどのことでもない。
コースによっては有料だ、と。
武道館でビジュアル系のだしものやるときよく見かけるコスプレ一味みたいな奴か、金払って観るのは。
奥様、ポンパドールまっつぁおのお姿ですわ、まさにロココのココロおフランスの精神ざます。
などと、みないでおちょくるのはおれの悪い癖だ、反省しよう、かといって見てやっぱりと消耗するのもばかの見本だし。
どうする。吾輩の身の振り方を決めねばならぬ。
こういうときこそ先人の知恵を拝借する。
豚児も危うきに近寄らず。
そっちはそっちでうまくやってくれ。
唐突だが
◆美醜と羞恥心の関係について
レモンはすっぱい柿はしぶい。
レモンは黄色い柿は、柿色。
色、と味覚は、違うものさしです。
同様に、美しいかそうでないか、というものさしと、恥を知るアンテナがあるかないか、というのは、全く別な領域に属する、はずだ。
雲は美しい、爆買い集団は醜い
武士道とは恥を知ることとみつけたり、と今おれが決めた、のと、爆買いは恥を捨てることと定義する、これも今決めた。
これは別のものさしだ、たまたま爆買い集団がふたつとも登場したが、違う光の当て方だ。
ところで、
東御苑は美しい、迎賓館は醜い
東御苑は恥を知る、迎賓館は猿真似コピー鹿鳴館不平等条約レベルの田舎くさい欧米崇拝恥を知れ
はて、この二対は、同じコンビがならんだぞ。
ここで、美しいとは、恥を知るということだ、醜いとは羞恥心の欠如だ、と推断してはいけない、それは短絡というものだ。
確かに雲に、君が美しいのは廉恥のココロがあるからだね、などとは言わない、妙な擬人化をしないかぎり。
人、の要素が介在するとき、美醜と羞恥心の有無が結びつく、ということか。
東御苑も迎賓館も、場所、あるいは建築物であって、人じゃねえだろ。
いいえとんでもない、二の丸庭園も迎賓館前広場も、とことん人が介在しています。
人が介在といえば大塚親子劇場は当方の記憶に新しい。
大塚家具CMは羞恥心の欠如→醜悪
なるほど、これは美醜と恥の有無が自然に結びつく。
ところで上の例の場合、「笑い」の要素はいかがでしょうか。
面白度のものさし。Z軸追加。
やめよう収拾がつかなくなる。
朧月夜だ。