閑、であるかは心許ないが、ひま、であることは間違いないので、連日の登板だ。
2016年は閑数寄道心だ、とは既に表明した。
今回は、その中で数寄についていま少し掘り下げたい。
歌舞音曲の部、とそれ以外にわける。
◆歌舞音曲
今年は、前半4度テューニングで6月ライブ、後半5度調弦で年を越し早々本番、いずれも弦4本、という成り行き。
来年は、弦が2本増える。それで、中南米方面を渉猟したい、と。
いや、実はギターを注文しましてねエレアコですけど、そいつでボサノヴァでもつーことよ。穴があったら入りたいよ。
たぶん、まず、リズムが全然だめでしょうね。というわけで。
◆音楽以外
こっちが今日の眼目。
ブンガク、どうでしょうか、ブンガク。
ここで、親和力、および言語化以前、という閑数寄道心以外の2大テーマが顔を出す。
親和力とブンガク、これはわかる。
漱石さん、子規さん、なんとなくうまが合うぜ勝手に、と、まあ、そういうこと。
しかし、もうひとつのほうは、なんだ。
ブンガクと言語化以前だと。
ジョンケージの4分なんとか秒か。
形象化されない彫刻、みたいなものか。
はったりかますのはみっともないからやめてはどうか、与太か。
これはこういうことでしょう。
ブンガクだから、表現者と受け手を結びつけるのは文字です。言語です。
いったん言葉になります。
それを脳みそでキャッチして情報処理して、なにがしかの感興、というのがブンガク受容の流れだ、と、いま決めた。
それを、言語化以前にもどす。
触発されて、特定の匂いに行き当たる。
ある、雲の形象がとっさに浮かぶ。
だから、正しくは、言語で受け取り五感に戻す、というプロセスか。
いまうかぶのは、百輭の頭を刈りこむ看護婦のピカピカ光るはさみの、ピカピカ。
その、ピカピカという印象。
漱石なんか、宝庫ですよ。
漱石と鴎外の違いは、それがあるかないか、というところある、おれは。
鴎外は頭で発信、頭で受ける。論文の変種。
漱石を五感で味わう。
これは、漱石さんを近代的知性の懊悩、みたいなところから解放してやる試み、ともいえる。
単に面白いからだけか。
淫する愉しむブンガク。
どうかね。
N時間後。
酔っぱらって書くと、自分だけのみこんでる独りよがり感が横溢し、それはそれでいいか、と。
最近、泣く泣く削除、が多いので、これは残す。
いずれまた。