啓発舎

マジすか? マジすよ

桂文珍をほめる。
テレビだが。
寝床。

おれは、落語はテレビで十分だと思う。
歌舞伎もそうだが、言いだすと長くなるので割愛。


鈴本で半日過ごすには、屈託とか、トホホ、とか、そういうエネルギーが必要だ。
マリオネットとか、しくじるお神楽とか、かわりにおれがやろうか、と思わせる前座のガキとか、眼前に広がる風景をやり過ごす安息、が寄席に通う本質なのだから、おれは。
だから90年代よ、おいらが通ったのは。志ん五が主任でやった妾馬なんか、じんときたね。


で、テレビ。
今回の文珍さんみたいなのは、寄席では滅多にみられませんよ。
繰り返すが、寄席は名人芸をみるところではなく、自分のトホホと和解するための時空間だから。


で、再度文珍
文珍さんは、初めて高座にあがったときから既に完成されていたのではないか。
少なくとも、おれは、当然テレビでだが、初めてみたころと今と印象が全然かわらない。


文珍さんのうまさの本質は、音楽、だと思う。

音、として心地よい。
関西弁の抑揚をこれだけ美しく表現できる方は、落語以外のあらゆる話芸を含め、師匠しか思いつきません。

ジャンルを問わない、およそ表現者は、五嶋さまと越路さまと文珍さまの前に首を垂れよ。



陽水もさっきみたが、能書きばかりで歌はかつての自分の模倣であった。
首を垂れさせる芸は、なかなかたいへんだ。