啓発舎

マジすか? マジすよ

正月恒例の風邪をひきこんで、昨日から寝込んでいる。
平素もぼーっとしているだけではあるが、なおさら朦朧としているので、意識もほとんど混濁しているのではないか。
抑制もとれて・・・はいないが、緩んでいると思うので、なんか書いてみよう。


とは言っても、もう、このブログでは、ブログという媒体の性質からいって、ほとんど書くことがない。


一応、これ、公開なので、一般の方も閲覧できるようになっている。
ヒット数から言ってもたかが知れているが、それでも、ブログに書くということは、己を世間にさらす覚悟、というほどむきになんることもないが、自覚は、あるつもりだ。
当然、莫迦なことを選んで、書く。
一方で、このブログで想定している読者は未来の自分なので、ときどき、いくらなんでもなあ、という気にもなるので、忘れないように言っておこう、ということも、まぜる。
というのが、基本姿勢であります。

で、あるのだが、最近、他にすることもないので自分のブログを読み返してみると、あらあら不思議、結構、底流、というんでしょうか、もやもやしている、通奏低音のようなものが、聞こえてくるもので、いくら韜晦しても、文章を書くということは、なにがしか、自分をさらしてしまうものなんだな、と感心したりしている。

ここで見つかる自分は、日頃自分自身で想定している自分ではなかったりする。
自分を発見してしまったりする。
自分とはなんなの、というと、昨日読んだ小林先生と大澤先生のお笑い「知の技法」が、一番最近の記憶なので、思い出されて、健康に笑えるのであるが、要は、自分はなに、なんて、誰も知りませんよ、そんなこと、ということは、両先生が300ページ、ぐらいか、かけて言い張らなくても、みんな知ってることだ。


ところで、賢明な読者、というのはオレのことだが、はすでにご拝察のとおり、去年の秋ごろから、飯食っても庭木に水やりをしても、なんだかラディカルなことばかり頭に浮かぶようになってきてしまっている。

環境の変化、が一番大きな原因だ、と推測している。
そもそも★◎とは、が浮かぶのと、引っ越しと、だいたい機を一にしていますから。


ともあれ、そんなことこっぱずかしくて書けませんよ、ということで、冒頭の、書くことがない、発言になる。


じゃ、アランドロンかっきーじゃん、と、正月覚えたとんねるず石橋の言い回しを早速つかってさっき見たフリックストーリーを褒めるとか、小林大澤を笑うとか、特に大澤は、その対談の後半、理系におされて自分のポストがあぶねえんじゃないか、という深遠な問題意識にたってか、実は高校のころは数学得意で理系だったんですよ、と自分の理系ルーツを延々語りだす、あたりは圧巻なのでおちょくってみるか、というのも、さすがに体力が。
風邪だし。


今年は流れにまかせるしかないですね。


ということで年頭所感といたしたい。