陽気もいいし日曜日だ。
ということで、今日のテーマは柄でもないが天下国家だ。
この国を良い方向に導くキーワードは「寛容」の二文字だ、ということについて。
中韓は、ほんとにどうでもよくて、たぶん対中国と対韓国ではそれぞれ問題が異なるのであろうが、それも、どうでもいい、中韓ひとくくりでいい、ぐらい、どうでもいい。
そっちはそっちでうまくやってくれ、というかんじ。
興味なし。
であった。
ただ、さすがにこう毎日あらゆるメディアでこれでもかこれでもか、とやられると、うんざり、であるとともに、あのなあ、と、しまいにはおいらもモノ申すぞという気分にもなろうってもんだ。
例えば、他人が勝手に家にあがりこんできて、今日から、お前の名前は、テムジンだ、公用語はモンゴル語、と有無を言わさず言われたら、あんた、どうだ。
というのがこの問題の本質だと思う。
台風で救われたんでされずにすんだだけのことで、もし、元に攻めこまれて国土をあらされたら、この国の歴史観は少しかわっていたのではないか。
やったほうは忘れてもやられたほうは忘れない。
個別の事象はおくが、今回問題になっている慰安婦とか、まえから問題になっている南京とかより、たとえば満州の731とか、はるかに人道上重大なことを、この国はやらかしている。
データが欲しかったアメリカと握ってうやむやになっているのかもしれないが。
確かに今回の両国の対応、特に韓国は、幼児が駄々をこねているような稚拙なやり口が目立つが、他国語を強制された悔しさ、ほかにもいろいろあると思うが、このことひとつとっても、根っこにわだかまるものがあるだろうな、ということは、気持ちとして、わかる。
その、「気持ちとしてわかる」、ということが、一番大事なのではないでしょうか。
同情、といってもいい。
一回、相手の立場になってみる。
それで相手の気持ちが間尺に合わないと思えば、そのときは、それはおかしいと言えばいい。
正邪はともかく、その感情の遷移はわかる、となれば、そこから相手とのやりとりを組み立てていく。
人間、理屈なんか簡単に飛び越える。
それを所与のものとして、臨むことができる、ということが、寛容である、ということではないかね。
もちろん、無理が通れば道理がひっこむ、はよろしくないが、外交問題って、なんだか、感情の総和って気が、どうもするね。
いまこの国のトップのぼくちゃんは、瑣末なことにもむきになって言い争いする仁だから、小者に期待できないが、いずれ世界に対して大人になってみせる、ということが唯一の解決、とはいえないまでも、収めどころのように思いますね。
なんだか、この国の人たちは、最近、なにかにつけ、妙に他罰的になってやしませんか。
自分を知れば人間がわかる、人間がわかれば、そんなに相手に厳しくなれないと思うのだが。