啓発舎

マジすか? マジすよ

半分は涼みに行く目的で図書館に通っている。
同じ動機の向きが多いのか荻窪の図書館はにぎわっている。
一般閲覧用の蔵書は、相当多いのではないか。
一度に10冊以上借りられるので、なるべく違う棚から一冊ずつ、という基準で本を選ぶ。
で、日ごろあまり読まない小説類も借りる。
で、思ったこと。
当方には、小説の類は重たい。
男の書くものは、自己憐憫
女は、どろどろの吐きだし。
これに尽きるのではないか、とくに最近のやつは。
つきあう体力が、ない。

読むほうも仲間内感覚なのだろうか。
女は、同性の生理に根差す歪んだパワーに快哉を叫び、男は、ひたすら村上春樹にめそめそ同調する。
でも、待てよ、男が男の書いたものを読む場合は、それでよいが、じめじめした男が女の書くものを読むとどうなるか。
たとえば、おれなんか、ほっとけばカビがはえるというぐらい湿っぽい奴なのだが、桐野なんとかさんを耽読するおいらは、自分でも想像できない。

逆に、憤怒の形相の女が村上春樹を読むとどうなるか。

まあいいや。まかせた。
とことんどうでもいい話でした。


で、どうしてもノンフィクション。
というか評論なのだが、
「サイード音楽評論2」 みすず書房
が面白かった。

ヴァーグナーとの格闘。
ユダヤ人がヴァーグナーを聴く、というのはたいへんなことであるのだなあ。

前から思っていたのだが、ヴァーグナーって文学的に解釈されすぎじゃないか。
ユダヤとかニーチェとか。
更にちょびひげでまくしたてるエキセントリックなおやじが登場すると、おいらの手に負えなくなる。これは政治的か。或いは、およそヒューマニズムという言葉がありうるとしたら、それにまつわるなにか、か。

なにより、当方にとって、ヴァーグナーは、ちょっと他に類を見ない音楽を創る天才であり、それに尽きる。

たとえば、今、第九をさらっているのだが、ベートーヴェンって、ロジカルで、特に中低音部を受け持つと、たいへんわかりやすい、安定した気分で弾くことができる。
ちょっと、わかりすぎて面白くないところもある。

そこへいくと、ヴァーグナーの書法は、そこでそれをやるか、という無手勝流のところがあって、どうも作曲はほとんど独学のようだからそういうところもあるのだろうが、ところが、それが凄いことになる。
たとえばトリスタンの前奏曲

調性がどうのとか、難しい議論の多い曲だが、おれに言わせれば、これは、不安定な浮遊感を持続させることだけも目的に書かれた、感性に委ねられた曲だ、ロジカルじゃない。
じゃないと、あの展開はできない。

で、そいういヴァグナーさんを、サイードさんは、徹底的にロジカルに語るのだ。

他の、リヒャルトシュトラウスとか、ブーレーズとか、グレングールドに対する言及から推して、音楽に対する感受性は深いものがあると拝察するが、ヴァーグナーに対すると、どしても、音楽以外の要素がいろいろ介在してしまうのだね。

今度の演奏会では、おいらとしては30年ぶりぐらいに、マイスターの前奏曲をやるのだが、この曲は、中間部のたゆとう流れにすべてがある、と思う。最初と最後のはったりではなく。

そういうところ、そういう、流れる心地よさ。私にとってのヴァーグナーは、それです。

また、とりとめなくなった。