啓発舎

マジすか? マジすよ

◆表参道まで出るのがおっくうで、お誘いいただいたが籠城。
昔、といっても、つい2〜3年前だったらでかけたのではないか。
今年ついに神宮の花火にもいかなかった。
なぜ今日表参道にいかないのか、女、しかも天敵二人組の巣窟、昔ほど豊か感がない、などの理由は考えられるが、こう暑いと見合わせた真偽は自分でもわからん。
女二人組については、わめかない輩も結構事例として観察できて、二極分化のきざしがあるか、これはまだ予断を許さない。
テレビでも、割合起伏すくなく普通の抑揚でニュース読む女もまれにでてきて、例の中国山水図の奇景的、サインカーヴ的、コンビニ惹句的、アニメしゃべりの手合と拮抗している、とまではいかないが、いい台頭のきざしが感じられないこともない。
悪貨は良貨を駆逐するのか。一時期、着れる、とか見れるとか変換すると、ワードあたりではだめだしがでたが、いまこうして打ち込んでもなにも注意がでない。
「見れますか」と問われ、「はい、見られます」と応えるのは、勇気いるようになった。

◆要は、ブルーなんじゃよ。なんでも年のせいにするが、暑くてかなわん。

◆歌の別れを読んでいたら、おれのルーツは学生時代をぼーっと過ごしたことではないか、と、突然思いついた。

中学高校のころは、それなりに、べそかきながらなんだか突き詰めようとしていた、周囲の、いまから考えてもよくこんな奴らを集めた、と思うようなぼくちゃんたちと取っ組み合いながら。

大学はいると、それが真空状態に。
何故だ。
そりゃ、遺伝子レベルでの怠け者、と答えはでているのではあるが、少しく、暑いし、時間できたので、考察することにしたい。

特に本郷のころ、法文二号館、一号館か、の半地下の学食で、昼から生ビールを飲んでいた、あるいは本郷三丁目の日信販のビルの近くのそばやで。
上野動物園で黒ひょうとにらめっこした。
夕方になると、霞が関で乗り換えて六本木方面にいくと、二三人だれそれがいて、夜中になると女二三人が増えてどうしたこうした。
たまに二食の部室をのぞくも、既に半分引退の身。青木とニクラウスの死闘を二食の食堂でタンメン食いながらぼーっとみていたことがあったっけ。
で時間つぶして、不忍池突っ切って、文化会館で都響定期演奏会を聴く。N響は高いし澁谷は遠い、そこへいくと、都響の学生券は安く上野は歩いて15分、弦など結構うまく、たまにいい演奏をした。ペーターマークとかベルティーニとかいまでも印象ありますね。

六本木も、ディスコ最盛期の手前の、ずっけろ、とか、グリーングラスとかの割合こぶりな店で、KOの奴らがパー券ばらまいていたころ、な。いや、それは駒場のころか。

駒場のころだって同様だ。
記憶すらあまりないが、抗議、じゃねえよ、講義なんかどうだったろう。
高校のころあんなに読んだ教授陣の授業に、全然でなかった。
義理の兄が哲学おやじで、広松渉にだけはでろ、と言われてでたらべっ甲の、なんだろうエルトンジョンみたいなメガネかけていやがって、べつにそれが理由ではないが、それっきり。
村上陽一郎はサークルの先輩であるらしいのだが(楽器もいっしょ)声がいやだ。こいつと比べたらかんさん(政治家じゃなく学者のほう)のほうが、まだましだ。ともかく、いまでも、すこしは横目で気にしているのだが教養主義はいまいずことか田舎者はばかにしろ、とか相変わらずの気障男ぶりです。

まあ、全然文化的じゃなく、井の頭線にすら乗らず、澁谷の東口会館(ってまだあるか)とか文化会館(これはもうなくなった)とかでへどはいていたわけだ。
文化会館のバグパイプなど、乱闘さわぎもあったのだが、その後店に拒まれたという記憶はない。鷹揚だったのか。
えーいきりがない。

中野重治さんをみよ。
清冽な気。学問に触れる高揚。
故郷への郷愁。
詩人の感性と、詩への決別。
新たな、現実にある巨大な存在に対して、身を賭して向かっていく、決意。良心、使命感。

おれと百万光年ぐらい、ちがうよな。

この項、興が乗ったら、いますこし展開するか。中高のころについては、いじいじ思い返し返し30年やってきたが、そのあと、空白期、おばか時代については、空白であるから当然であるにしても、あまり顧みられないでいた、私自身によって。
かかる状況に鑑み、いまいちど、学生時代に光を当てるというkとを試行するのもあながち無益なことではなかろうなどと考察するも、
いかんせん空白だからしょーがねーだろ。
真空地帯。野間弘とはまったく違う意味だが。
空白であるにしても、その空白になにがあったか。
反物質だって反陽子だってあるんだから、あるいは、あるらしいのだから、なんかあってもいいだろう、おれさまにも。