◆昨日のnhkの芸術劇場は、びっくりした。アルカディ・ヴォロドスというピアニスト。
清冽なスクリャービン。弱音の美しさ。どちらかというと硬質な感じもするのだが、小声でささやくときは、不思議なもやもや感がある。テレビでもわかる。
ラヴェルの「優雅でなんとかのワルツ」は、アルゲリッチとの比較になってしまうのは致し方ない、ウォークマンで歩きながら聴いているのだから。この端正な印象。この人の音楽性は、すきだ。たぶん、違う楽器だったとしても、おなじような音の場を提示してくれると思う。
ピアノは、あまりすきな楽器じゃない。うるさい、と思う。ほんとにピアノが美しい音を出すようになったのは、ドビュッシー以後だ、といまでも思う。が、今回のスクリャービンは、テレビでも美しいと思った。
この人のドビュッシーを聴いてみたい。演奏会で。1万円までだったら出すな。
◆今日の土曜日は、完全にオフです。麻布十番の川上庵でランチ。くるみのそばは、軽井沢の味そのままで、ほんとにおいしかった。店は、陰々滅滅。
十番のタリーズでしばしぼーっとする。富麗華に足をのばすも、クローズ。
いろんな導き手から道元にアプローチしている。
上田三四二氏の「この世 この生」の「透脱道元」という章は、すこし面白かった。特にその時間論に言及する部分。
この人、ややもすると女子学生的情緒に流れる、と拙者には思われるところがあり、初読時は、どうにも、という印象だったのだが。特に良寛。
道元の章でも、前半は、例の、清潔フェチのところをジャーナリスティックにごちゃごちゃやっていてかったるいのだが、
道元は時間を憎んでいるかに見える。で始まる節は、やおら、というかんじで迫力がでてくる。
このおそるべき独断はどこから来るのか。 と。
拙者もそう思う。
道元を、読む、というのもおこがましいが、その原典の文字を追っていて、凡夫としていつも感じるのは、この言い切りは、いったいなんだ、ということ。
森羅万象と対峙し、真理を断ずるその強さ。どこまで自らを恃むとこういうことができるのか。
独善とはいわない。けれども独断ではある、と思う、当方も。
よく道元は1000年前に出現したハイデッガーだという論がある。なんか、道元さんとハイデッガーを比べる人、多いです。
もとよりフッサールからハイデッガーに至る西洋哲学の流れには、全くくらく、両者を比較してどうこういえる立場ではないが、素人の直感でいうと、まったく違うと思う。
道元は、その身体で、その切断された時間を、存在を、遍在する仏性を、確かにつかんでいて、それをなんとか字として定着させようとした人。
思弁では、あの世界はでないと思う。
では、道元は、実際に、どういう世界を見ていたのだろう。
峻烈にあらゆる現象を断ずる、あの宇宙論のような思念は、どういうふうに世界を観ずることからでてきたのか。
この人だけは、そこが、なんだか他の先哲と、隔絶しているように思う。
なんで、こんな話だ。
春爛漫です。