啓発舎

マジすか? マジすよ

休暇も二日目になると、少しは自分と向き合うようになる。
11時から恵比寿のタリーズで仕事の打ち合わせをすませると、昼すぎていた。閑散とした麦酒記念館でスタウト。坂を下り、マサズキッチンで昼飯。前菜を含め、余分なものの一切ない、正確な、味。料理を形容するのに適切な言葉かどうかわからないが、この国の中華料理も、ここまできたか。
 この次の皿が、あったとして、きちんとだしをひいた松茸のお椀であっても全然おかしくない、そういう味。

 有隣堂で三島の短編集を立ち読み。「海と夕焼け」。買った。

 間違いなく、30年にはなる、最後にこの作品を手に取ってから。世の中にでて、最初の引っ越しで、すでにこの短編集は文字どおりお蔵いりだったから。というより、三島関連は全部裏の倉庫に整理してしまったのだった。

 あらすじは、記憶と違わなかったが、印象は、ずいぶん違う。
 最初の数行で、鴎外か、と思った。文体が、鴎外そのもの。という印象。この作品には、しかし、悪くない選択。鴎外の文体は。
 ただし、内容は、三島だ。過剰で凡庸な描写の癖は、これはしょうがないんだろうね。
 奇跡がおこるはずが、起きなかった、というテーマに関するくだりが過半を占めていて、それに文句をつける筋合いはないが、初読時当方の琴線に触れたのは、そのテーマではさらにない。山寺から見る夕日。碧眼の老人がそこで過去を観ずる、という設定そのもの。その、絵、であるのだが、30年前とはさすがに当方の立ち位置も違う。昔読んだ時の感覚は蘇らない。
 そこまでは、いい。予想したことだ。三島を再読すると、いつも、こうだ。
 大人の鑑賞に耐えないこと。これはいたしかたない。

 言いたいのは、その先。どうも今回は前置きが長い。

 最後に梵鐘が鳴る。当方の記憶からすっかりとんでいたのだが、そのくだり。以下、最後の数行を引用。

 
 そのとき佇んでいる安里の足もとから、深い梵鐘の響きが起こった。山腹の鐘楼が第一ショを鳴らしたのである。
 鐘の音は、ゆるやかな波動を起こし、麓の方から昇ってくる夕闇を、それが四方に押しゆるがして拡げてゆくように思われる。その重々しい音のたゆたいは、時を告げるよりもみしろ、時を忽ち溶解して、久遠のなかへ運んでゆく。
 安里は目をつぶってそれをきく。目をあいたときには、すでに身は夕闇にひたって、遠い海の一線は灰白色におぼめいている。夕焼はすっかり終わった。
 寺へ帰るために、安里が少年を促そうとしてふり向くと、両手で抱いた膝に頭を載せて、少年は眠っていた。



 写していて、抵抗のある描写もあるが、全体として、悪くない。
 夕日と永遠の結びつきは、当方知る限りでも、ランボーをはじめ、古今、語り尽くされているような感もある。月並、という気も、いまは、するが、立ち読みでこのくだりにふれたとき、当方の想いは、4年前奈良に遊んだときの岡寺でみた夕陽に飛んだのだった。その刹那は。

 岡寺の、三重塔か、宝塔か、そこから遠く展望できる低い山脈。おぼろに霞んだ稜線。その先に透明な黄金色の空間、それが次第に朱にそまっていく。
 その時空に、すべてが溶け込む。私という存在は既になく、およそこの世にあるすべてが、そこにそうあるほかない姿として現象する。境界はない、時もない。

 その日は、確かに妙な一日で、岡寺の夕日に遭遇する数時間前、長谷寺の、もと三重塔だのがたっていたらしい石組だけのこっているところに、大振りの落葉樹が生えている、その樹をみた刹那、その樹と、周囲の時空だけが、そうあるほかない荘厳さで、ただ、ある、という感覚がおそった、ということもあった。
 そのときは、少し狼狽したように思う。

 とまれ、我に帰って、帰途についたのだったが、諦念のような、悲しいような、子供のころの散々泣いた後の不思議な安堵感のような、そんな体感につつまれて、バスにゆられていた、ように思う。


 まあ、というような記憶がフラッシュバックしたのでした。今日。

 長谷寺の樹をみたときの感覚は、「美しい」という形容がいちばん近いようだ。岡寺の夕日は、ちょっと違うが。美しいという感覚すら、なかったから。

 当時この種の体感が少なからずあり、「美の不意打ち」なる表現を自分でひねり出し、なにかというと、おお、またしても「美の不意打ち」とかいっていたが、この長谷寺での体感など、その典型だ。

 その樹自体は、別段造形的に優れているとか、そういうことはなかったように思う。普通。ただ、それを見た刹那、体が反応したのは、美しい、という感覚に触れたときと近似していた、ということ。
 美は、これからの当方にとって、大事なキーワードだ、それ自体を追求するということでなく、「美」という鍵穴から普遍を開く、という接点として。

 岡寺に話し、戻す。
 で、その岡寺がフラッシュバックした、というのは、岡寺の残像が蘇ったのであると同時に、その不思議な体感、の残滓が俄かにわきあがってきた、ということでもあった。


 いまも、それは、ある。


 明日もオフ。