ユングの自伝を読んで打たれるのは、已むに已まれず生きてきた迫力だ。いつも。
励まされる。とくに、自分の根っこが不確かに思える、今日のような日には。
終章の「追想」で割合率直に自身の属性について語っている。
ユング自身が他の人々と違うのは、「境界壁」が透明であったことだという。
「ものごとの背後に生起することがある程度見え、それが一種の内的な確かさを私に与える」と。
「私の中にはデーモンがいたのだ」と。
無意識からつきあげる何者か、ということだろう。
ただ、ユングに感ずる違和感もまさにそこにある。
無意識、というのは通過点ではないかね。
その先にあるもの、が、本質的なのではないだろうか。
その、その先にあるもの、の感触というか残り香というか、に微かに触れる、という感覚。
それこそ、この後当方に与えられたN年間、この感覚と遊ぶ、ということだけでも、やっていかれる、と思うところなのです。
おそらく、志向する向きは同じ、なのだと思う。
どっちが浅い、深い、という詮議は、この際意味がない。
大事なのは、その自らの志向に忠実に、おじけず、わき目もふらずに、突っ走った、という生き方。
自伝上下二巻のうち、下巻のほうは、外的事象は、内面を語る必要に応じ最小限触れられるだけ。ほとんど内面のモノローグ。
当方はといえば、水に浮かぶ木の葉生活が続く。