啓発舎

マジすか? マジすよ

はずみで、道元を読んでいる。
原典を素読できるはずもなく、概説書だ。
著者 南直哉。
書名 『正法眼蔵』を読む

おととい、恵比寿の写真美術館の奥の喫茶店で、ねばってほとんど通読した。
ちょっと凄いぞ。

 この本についてのあれこれは、いずれそのうちに。

今回は、触発されて浮かんだこと。

・壮大な思考実験を一生かけてやった、ということか。正法眼蔵は、その軌跡ということか。
・さとりを定義するのは潔い。
 「縁起的実存の自覚における主体性の生成」と。
・著者のスタンスは以下の4点
 その一、つねに変わらず同一で、それ自体で存在するものとして定義されるもの、それを仏教では「我(アートマン)」と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない。
 そのニ、あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書の「縁起」の定義である。
 その三、我々において「縁起」を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。
 その四、「縁起」であるはずの事態を、「実体」に錯覚させるのは、言語の機能である。と、同時に、「自己は言語内存在として構築される。

・「有時」についての言及は、おもしろい。時間は存在で存在は時間だ、というくだりは、体験的に腑に落ちるところがあるぞ。

 丸ビルのABCで、昼、いつものように時間をつぶしていたら、この著者の近刊が平積みになっていた。「生きるのがどうしたこうした」という人生論風。
 これはスカ。
 玄侑宗久氏との対談もあるようだが、どうか。
 怖いもの見たさ、というかんじもあるな。今度立ち読みしてみよう。