晴れ。
掃除洗濯をすませ、11時開店直後の三合庵でそば、ビール。
すがすがしい時間が流れる。
30分もしないうちに、満員。
当方二人がけを占領していたので、蕎麦湯を流し込むと、席をたつ。
「いつもありがとうございます」と言ってもらえた、いつもクールな店の女の人に。
たぐって、飲んで席をたつ。
愛車でガーデンプレイス。
JR恵比寿から新宿経由小田急梅ヶ丘でしごと。
羽根木公園をのぞく。
茶室がある。のぞく。
すこし殺風景。
美、ということについて少し感じるところがあった。
東京は、肌になじむ。
そりゃそうだ、生まれ育った街だから。
ただ、その、この二ヶ月、週末のたびにそこらを徘徊していてどうも片付かない気分が底流していた、ずっと。
「美」と遭遇しないからではないか、と、突然思った。
京都をうろついていると、「美」というものが、それこそ、道端に転がっている。剥き出しになっている。
人工のもの、自然のもの、相俟って。
それが、東京には、ない。
はっとしない。
美とは、時空を直接体験する覗き窓。
では、なぜ、京都には、それがあるのか。
夕暮れ、自分の体をもてあますように、大儀そうに東山に向かって羽ばたいていくアオサギ。
永遠。普遍。うつろう。時間。空。存在。混じり気の無い悲しみ。安堵。静謐。包容。
建仁寺方丈の庭の、なにもない感。
空間を領するということ。
いつも五感が臨戦体制になる。
スリリング。
なぜ、東京にそれがないか。
歴史か。気候か。
場の磁力か。
ともあれ、東京という街は散文的だ。
楽だが。
胸がきゅんとなることは、ない。
まあ、しばらく、1年、2年こうしていて、自分の中から何がでてくるか、ですね。