啓発舎

マジすか? マジすよ

3万ヒット

 なんだかんだで3万ヒットになった。苦節2年弱。
もうしばらくかかると思っていたのだが、昨日のショーケンが思いのほか来訪者を集めたようだ。
 時事ネタの固有名詞をちりばめるととりあえずヒット数は増える、というのは、ブログをやっている人は誰でも持つ経験則であると思うが、ヒット数を増やすこと自体は当方の意図するところでないので、その点は今後とも留意して、地味にやっていきたい。昨日は、当方のおちょくり根性がうずいただけの話。

 別に節目というほどでもないが、この機会に、あまり韜晦しないで、このところぼんやり思っていること、このブログそのものをどう考えているか、について少し書いてみたい。

 年をとる愉しみは「どーでもいい力」が増大することに尽きる。
 いろんなことがどうでもよくなる。どうでもいいカテゴリーがどんどん増える。楽になる。
 
 そうすると、少し飛躍するが、「混じり気」がなくなってくる、いろいろなことに対する思いが。

 一番顕著なカテゴリーは、およそ人との関係に属するすべてのこと。

 もともと、当方の大事なものランキングでは鳥とか苔とか木とか里山(適当に列挙)が上位で、「人」は、番付でいうと十両、幕下ぐらいではあった。
 年をとり、それがますますどうでもよくなり、今では序二段、序の口までランクダウンしている。身過ぎ世過ぎに支障のないぎりぎりのところまで低下。
 まあ、平たくいうと、世間のことなどどうでもいい、ということ。

 で、そうなると、限られた、人との間柄が、混じり気がなくなってくる。

 かえって居心地がよくなってくる、ということがこのところ実感としてあるわけです。

 竹薮のそよぎや、小鳥のさえずりとおなじレベルで心地よい、という感覚。
 人も、自然も一緒。

 この場合大事なのは、「限られた」というところ。

 誰も彼もというわけにはいかない。

 ゆるゆるした居心地のよさ、これが、生身の人に関する当方の関心の全てと言い切っていいように思う。

 「気が進まない」という感覚を鋭敏にして、少しでもこの感覚に抵触することは断じてやらない、というスタンスで日常全般に対処していると、まっさきに切り捨てられるのは、余計な人とのやりとり。
 これだけで日常はずいぶんすっきりするけれど、そうなると、かえって、残る人とのやりとりが、淡く、芳醇になる、という逆説。

 これから、こんな風にしてやってくんだな、と思う、成り行き次第だが。

 このブログも、読者の大方は面識のない方だけれど、そういうひとたちに通じればいいなあ、と思います。