一人称単数をなんと表記するか、というのは、結構大きな問題だ。
このブログでは「当方」と言っているのだが、実は、自分で使っていて、正直、しっくりこない。
かといって、私、オレ、ぼく、いずれもピンとこない。
なんで、今さらこんなことを言うかというと、今日、経済三誌をまとめて立ち読みしていたら、巻頭のエッセイで「拙者」と自らを呼称しているのを発見したからだ。九段下の手前、大手町の先あたりでだしてる雑誌だ。
拙者。
みなさん、苦労されてますね。
じゃあ、文末は、〜でござる、か、というとそうでもない。
このエッセイの筆者は、それなりにマークはしている。
「文章の書き方」のような新書を書いているが、割合きちっと立ち読みもした。
覚えているのは、「あと」という言葉をつかう奴を口を極めてののしっていたこと。
ですます調と、である調を混在させてはならねえ、結論を考えてかけよ、話が飛んで飛んで収拾がつかなくなる奴はだめだ、なんてことも言っていたか、うろ覚えだが。
全部、とことん当方に該当する。
「あと」なんて、こんな便利な言葉ないですよ。
及び、でも、加えて、でもない。赴くままに文章を勝手につなげるのに、こんなに融通のきく言い回しはない。
ですます、とである、は混交させてこそ文章に味がでる。なになにだ、と断定し見得を切りたいときと、迎合して、ですますを使いたいときって、ありますよね。
言い出しと終わりに100光年ぐらい乖離があって、はじめてまともな文章だ。
などと言い出すと、数少ない読者がまた減るな。
という訳で、この筆者には、なんだこのやろ、という気持ちはあるのだが、突っ張る姿勢には、たまに、分からぬでもない、というところもある。同い年らしいし。
で、彼も自分をどうよぶかには、苦労してるんだな、と、思った次第。
「拙者」は、どうかと思いますが、ね。
実は、いつか使いたいと思う呼称がある。
NHKの大河ドラマで以前忠臣蔵をやった。吉良上野のすけは石坂浩二氏だった。亭主に冷たい妻を夏木マリが気持ちよさそうに演じていて、いい味だしてました。
で、亭主上野のすけが理解の無い妻をなじるときに「ミドモがこんなに苦境にあるのに、云々」という言いかたをよくしていて、気になっていた。
そう、ミドモ。漢字ではどう書くのか。
身許、身供、なんだかわからんが。
どうだろうか。だめか。
こんど、いっぺん、使ってみます。
突然思いついたが、「乃公」はどうか。
で、文体も自然主義の模写で。
伊丹十三氏がやっていたのを思い出しただけ。
きりがない。1000メートル泳ぐと、脳みそ筋肉よ。