啓発舎

マジすか? マジすよ

曲名 任意の合唱曲
作曲者 ガブリエル・フォーレ

 今日は、音楽、しかもクラシックの番です。季節柄、フォーレ、なんかどうだろうか。
 とは、いっても、他人をだしに自らを語るスタイルが定着したいま、また、脱線に次ぐ脱線で、なんの話かわからなくなるこのブログの昨今の傾向からして、どうなるか自分でもわからない。
 きのうの江藤淳にしても、江藤さんその人について、ほとんど語っていないではありませんか、読み直したら(自分で言ってどうする)。予備知識なしに読んだ方は、「へえ、江藤淳って、よく怒る人なんんだ」という感想しか持ちませんよ。だいたいあたってるけど。
 したがって、フォーレについて詳しく知りたい人は、とりあえずレコード屋に行って、なんでもいいから小品集を買ってください。それでだいたいわかります。

 フォーレについては、いつごろ好きになったか、また、そのきっかけがどうだったか、わからない。記憶の彼方にもやもやしている。
 気がついたら好きになっていた、特に意識したわけではないけれど。
 10代前半のころ、音楽の情報源は、圧倒的にFM放送だった。当時、ひまさえあれば、NHKのFMを垂れ流し状態で聞いていた。もう廃刊したけれど、FMファンなんていう雑誌があり、番組表も載っていた。で、立ち読みして、お目当ての番組はカセットテープに録音して、繰り返し聞くわけです。
 音楽の趣味にも国民性があって、たとえば、ゲルマン系の人は、あまり、フランス音楽に親近感を覚えない傾向がある、という説がある。真偽はどうだかわからないし、人の嗜好を十派一からげで言うのは、どうかとも思うが、敢えて言うと日本の人の感性は、フランス音楽には親和的なのではないかしら、一般に。
 FMでも結構登場していた。「夕べのリサイタル」という日本の演奏者のライブの番組があって、そこで聞いたヴァイオリンソナタの1番なんか、印象に残っています。
 この番組は、私贔屓にしていて、林光さんのチャーミングなテーマ曲(どことなくフォーレ風!)も懐かしいですね。
 学校行くと、モンクしか聞かないやつとか、ウェーベルンしかないとか、そんな奴ばかりだったから、フォーレが好きだとは、なかなか言い出せなかった。
 この人には、吉田秀和さん、という強力な擁護者がいて、よく言及されたが、ほんとにそうですよね、と思いながら読んでいた。
 
 一番本格的に聞いたのは、大学時代。
 チェロ弾きにとって、この人はありがたい人で、「夢の後に」 とか、「エレジー」とか、「シシリエンヌ」(これはCMでやたらとやる)とか、かわいらしい小品を残してくれた。
 姉の結婚式で、姉の職場の先輩にピアノを弾いてもらって、シシリエンヌをやった。弾く前に「今日は私のリサイタルに大勢お越しいただきありがとうございました」と、用意した前振りを自分で言ったら、全く受けなかったことをよく覚えている。
 奏者の立場になると、フォーレの転調の魔術が、体で味わえる。
 あれは、なんなんだろう、あの独特な旋律の飛翔感は。


 フォーレを聞くなら季節は初夏です、それも晩。
 窓を開け放って、微熱を感じながら、この人の、例えば「月の光」(他の曲でもいいけれど、いずれにしても「声」の曲がお勧めです)を聞く。ワインを傾けながら。
 歯の浮くような設定だけど、これがしみじみいいんです。
 私も実際、夏の晩によくこれをやりますが、ほんとにそのまま昇天しちゃいそうですよ。

 声の曲は全部いいです。なかでも私は合唱曲を偏愛しています。レクイエムもいいけれど、「マドリガル(今聞いてる)」とか、「小ミサ」なんていう小品が、なんともいえませんね。
 楽器では、ピアノの入った室内楽。特にピアノ五重奏。1番もいいけれど、2番の冒頭ヴィオラが息の長い第一主題を奏で出す弓のような旋律。転調の神業。

 管弦楽は実演で聞いたことはないけれど、私の師匠(篳篥の先生)によると、N響定期でデュトワが振った「ペレアスとメリザンド」は、N響が別のオーケストラになったようで凄かった、とのこと。
  
 もう、私は、この人は全部好きです、無条件。ほとんど生理のレベルで。

 中庸で、慎み深く、気品があり(絶対に俗には堕さない)、アルカイックで、粋、雅、浮遊感、やすらぎ、蒸留水のような透明感・・・
 いつ聞いてもいい。邪魔にならない。

 自分の人生にとって、日々豊かであるために、どうしてもかけがえのない事象というものはある。中学高校のころの感受性、修学院離宮神田神保町という街、ビール、日本の「道(アプローチはなんでもいい、美というか、究極というか、普遍的なものを、ついつい目指してしまう精神)」ある種の音楽、そして・・・。
 そういう少数のかけがえのないものがあれば、(そしてその多くは抽象的なものだから、自分の裡で大事にしていられる)逆に、それ以外のことは、だんだんどうでもよくなってくる、ということでもあるけれど。
  
 そういうことどものかけがえのなさが、年を追うごとに、加速度的に切実になってくる。
 
 そういう意味で、このフォーレという人は、私にとってかけがえのない人です。