啓発舎

マジすか? マジすよ

書名 無絃琴
著者 内田百間
出版社 旺文社 旺文社文庫

 内田百間(あるいは内田百輭)については、私も少しは語る資格があると自分で思っている。

 きっかけは上に掲げた旺文社文庫。この、文庫の出版ではそれほど名の通っていない出版社が、突然、怒涛のように、百間を出し始めた。結局20〜30冊ぐらいになったのではなかろうか。百間の名前は既に知っていたと思う。高橋義孝氏の随筆か、山口瞳氏の関連か、忘れたけれども。洒脱な文章家、らしい、と。で、ほうと思い、初回の「阿房列車」を買った。80年ごろ。当方に予断があったせいか、このときは、面白い、とは思ったが、ふーんという感じ。それが、その何冊か後で、「百鬼園随筆」を読んで、驚嘆したのだった。当時の日記に読後感を書きまくった記憶がある。以来、12〜3冊、書店に並ぶと購入、だから、いまある本は全部、初版(旺文社文庫の)だ。大学生協とか、書泉グランデとか、当時の当方の立ち回り先がわかるブックカバー。
 この人については、名のある文章家が競って論評しており、だいたい同感なので、いまさら私が付け加えることもない。
 不安定なかんじ、ある種の不気味さ、ユーモア、奇人、等々。
 

 百鬼園随筆(正、続)が有名だが、個人的には、その次に出版された「無絃琴」を偏愛している。例の、頭が痒くなる話の、のっているやつ。
 「掻痒記」。
 「大学を出てから1年半ほど遊食した」から始まり、「うつらうつら日を暮らす」うちに、「頭の方々がむやみに痒くなってきた」。痒さは「言語に絶する」ようになり、自分で掻いてはおさまらず、どうしても人に掻いてもらわないと承知できなくなる。で、お手伝いさんに頭を掻いてもらう仕儀になるのだが、このあたり、読んでいて生理的な快感のわく稀有な文章、百間の真骨頂です。
 床屋にいって、いろいろあって、といういきさつもあるのだが、それについては、次の「駒込曙町」という一篇に詳しい。
 この床屋とのバトルが滅法面白い。

 この一篇にも、大学はでたものの、就職が決まらず、結構な大家族を抱える焦燥感という内面の底流があり、「痒さ」の感覚が読者にもいや増す仕組みになっている。
 重層的。この人のよく使う言葉で「片付かない気持ち」というのがあるのだが、私は、この人の急所を良く伝える言葉だと思う。この点、いままで読んだ百間評で、誰も言及していないようなので、一言付け加えておく。



何度読んでも面白い。