芸域を広げます。本から音楽へ。懐かしい音楽の話。
なるべく、なにがしか、自分の体験と交差する音楽について、記してみます。
初回は、これだ。
曲 モーツァルト 交響曲第29番
指揮 ペーターマーク
演奏者 東京都交響楽団
日時 1980年ぐらい
場所 東京文化会館
当時、都響定期の学生会員だった。
だいたい、本郷の二食(という学食があったのです)で時間をつぶし、池之端門から、不忍池を横断、上野の文化会館に行くというパターン。
やたらと、空腹の記憶がある。
学生会員は安い。当然、席も隅っことか5階とか。
文化会館の一番音響のよい席は、2階の正面です。それも、3列目ぐらいまで。
定期だから、だいたいいつも空席という席がある。開演時間ぎりぎりになって、狙いをつけた席に移動、ちゃっかり一番いい席で楽しむ、ということをやっていた。
この日は、良く覚えているのだが、そうして座った席に、なんと、会員様がいらっしゃって、当方、間違えたふりして、隣の席に移動したのだった。
ペーター・マークという指揮者は、知らない人だった。モーツァルトの29番は大好きな曲ではあった。
今は知らないが、N響を除けば、都響は、特に弦は、なかなかのものだったと思う。
で、一楽章の冒頭の、A音から、柔らかな響きに、あれ、と思ったのでした。
素晴らしい演奏だった。
柔らかく、ギャラントで、洗練されていて・・・
2楽章の美しさ。
美の黄昏。豪奢なものの落日の美しさ。
そういう感覚を、音楽というもので表現すると、こういうものになる、という。
このとき以来、こういう感覚を覚えたことはない。
美術、建築、言葉による芸術、表現手段はなんでもいい、およそ、人の五感のとらえ得るある種の究極を提示するのが、芸術の使命だとすれば、この日、私は、そのミューズの導きを感じた。
美のはかなさ。
250年だか、なんだかで、モーツァルト様はもてはやされていて、相変わらず、神格化されつづけているようですが、私は、この人、条件がつきます。
やっつけ、も、当時のルーティンの書法にしたがった、出来合い作品も結構あると思う。
全て神様ということはない。時代の制約の中に生きている。
だけど、こういう作品を書かれてしまうと。
雅の極み、洗練から黄昏へ、という、こういうニュアンスを音にできるのは、この人しかいないでしょう。
苦悩だの、悲愴だの、というのはできても。
そういう訳で、初回は、やはりこの人。
追加。
ペーター・マークさんがあまりによかったので、マチネで、確かファミリーコンサートのような催しに、あわてて駆けつけたところ、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」全曲をやっていて、これが、また、素晴らしかった。この曲の序曲は、これからお伽の国に招待しますよ、というワクワク気分をどこまで出せるか、が急所。
ワクワクどきどきしました。ブラヴォー。
追加2
29番、とくに第二楽章は、偏愛する曲なのですが、唯一、最後にオーボエが突如チャルメラして、あっけなく終わるのは、なぜだろう。いつも、ここだけ唐突感あり。