クラシック音楽館 ラトル&ベルリン・フィル フェアウェル・コンサート
ベルリン・フィル芸術監督サイモン・ラトルが有終の美を飾るフェアウェル・コンサート▽ラトルの功績を団員たちが証言▽曲目はマーラー作曲の交響曲第6番「悲劇的」





このヒトは、弛緩、が苦手なんじゃないかしら。
明晰。内声部も、ずれによる混濁がない。
テンポもあまりゆらさないので、マーラーが、お行儀よくきこえる。
おれは、こういうのならマーラーも聞ける。
だが、退屈だ。
マーラーは、どうしても、どろどろしないと、おもしろ、が出ない。

このままちんたら終わるかと思ったら、終楽章の二度目のハンマーの後あたりから、ようやく盛り上がってきた。
なんだか弦がぐじゃぐじゃしだしたように感じたのは、気のせいか、演出か。


ともあれ、マーラーの6番を、何年ぶりかで、聞ききった。
快挙か、暴挙か、自分でもわからんね。
最後のドシャメシャがなかったら、骨折り損だったのは間違いない。



音楽でもなんでも、やむにやまれず、という、淫する、という接し方であるべきではないか。
マーラーを無理やりきいて、やっぱりだめだ、と確認するのは、不毛な行為ではないか。
時間の無駄ではないか。



このところ、どうもおれは、美意識の座標を確認するために、敢えて、X軸もY軸もマイナスの、第四象限に属するやつを取り込む、みたいなことをやってる形跡がある。
ゴミ映画をわざとみる、見田を立ち読みする。など。



こういうことは、よくないのではないか、とくに、おれみたいな奴には。


好きなことは、なるべく、やる。
気の進まないことは、絶対、しない。


が、日々やっていく二大指針であるおれさまが。
この指針の急所は、なるべく、と、絶対、のつかいわけだ。
好きなこと、は、「なるべく」でよいが、なんとなく気が進まないなあ、ということは、そのもやもやが発生した時点で「絶対」「断じて」しない。これが大事。

それが最近、ゆるんでいるので、季節もよくなることだし、引き締めを図りたい、と、突然思った。
それで、近頃ぼんやり浮かぶのが、情報管理、であります。

今現在、「絶対」排除しているのは地上波民放だけだが、これを拡大する、ネットとかに。
手法も含めて検討に着手しよう。



マーラーからはじまると、結局雑音をいかに排除するか、の問題に逢着する。