啓発舎

マジすか? マジすよ

で、きのう当初のテーマ、といっていたのは、このところ、もやもやしていたのが形になりそうになったのでとりあえず書いたのだが、書いていて、それは、ほんとに思うことはこのブログには書かない、という掟に抵触することに気がついた。

それに、もやもやを言葉に定着させるのは、めんどくさいし、ということで、いつものようにうっちゃっていたら、さっき岩波「図書」が届いて、ぱらぱらしていると、梨木さんの書いたもので、突然、きのうのもやもやがよみがえって、要するに触発されてしまったので、やっぱり、禁をすこし曲げて、書いてみる。


梨木香歩さんの書いたものに反応するのはよくあって、まるで考えが違うから、であるのは言うまでもないが、違うだけでは全然引っかからないので、なにか言いたいことが私に生じるとしたら、それは梨木さんが私にとって端倪すべからざる書き手だからに他ならない。
結論でひっぱってくるのは、失礼ながら、毎度、ステレオタイプのにおいがあるのだが、論の運び、考え癖に、自然に寄り添えるところがある。


で、私の頭上でもやもやしているのは、「がらんどう」ということです。
「がらんどう」自体については、このブログでも何度か言及している。
「そっち」「こっち」論のからみで。


しがらみなく人と接するようになると、初対面でも、何度か会っていても、まず最初に当方にはいってくる印象は、こいつはがらんどうかそうでないか、だ。
意図してではなく、自然に。

赤いブラウスを着てる、とか、髭はやしていると同じで、即物的に。勝手に。


人が書いたものを読むのでもそう。


当然、「がらんどう」でない人やら情報は、砂金探しのレベルでしか遭遇できないので、おのずから「がらんどう」濃度に、次に、意識は向かう。

これは、良否とか、優劣とか、正邪、とか、そういう二項対立ではない、価値判断は伴わない、事実として。
「がらんどう」は断固排除する、ということでもない。

「がらんどう」に、性別、学歴、職業、年齢はほとんど関係ない。
長く生きてきたから、すこしは中身もあるだろう、ということは、全然ない。


で、梨木さんだが、コピー貼り付けができないので、かいつまんで引用する。

◆「君たちはどう生きるか」が受ける鍵は、次の二点。
 客観視
 それに伴う主体性の「揺らがなさ」
◆しかるに最近の風潮は、として「インスタ映え」をひっぱる梨木さんだ。この件、味わって読める面白文章なのだが、打ち込みめんどくさいから如何に要約。
インスタ映え、と言う言葉には、人目を引くことに価値を置き、他社に評価してもらって初めて安心する、極めて主体性の希薄な日常が透けて見える。
・自分をジャッジする視座を外界に置かず、自身の内科医、じゃない、ハハ、内界に軸足を持つのが正しいありかた。
・それに比して、昨今の「見られている自分」を「見ている自分」の、背筋が凍るほどの空虚さ。
◆評価する主体をこちら側に取り戻したいという無意識の欲求が、広くこの「流行」の底にあるのではないか。

私が「がらんどう」というのは、たとえば、上で梨木さんが「背筋が凍る」ほど憤っている輩。
「たとえば」と留保するのは、インスタは見たことないので、見方もしらないので、全般をこう括るだけの識見は、おれにはない。
私の用語法でいうと「自分にうっとり」の連中、ということでしょうか。


これで、「がらんどう」のニュアンスは、みなさんわかりましたね。
あなたも私もおおかれ少なかれ当てはまりますね。


では、がらんどうでない、あるいは、がらんどう濃度が少ない、のはどういう奴か。

ここで梨木さんは、客観視、揺らがなさ、という二要件を挙げて源三郎をほめたたえる。

これには異論がある。
吉野氏がどういう人か、知らないからそれはどうでもいい。

そうではなく、客観視、揺らがなさは、イズムと結びつくと、とたんに独善、狂信になるので、今回の梨木さんの結論も例によってヒューマニズムに引っ張っていくので、それは、あんたの理屈でしょ、といういつものおれの感想になる。


最初に、結論反対、考え癖OKといったのは、抜き出した、要すれば、「自分の座標軸を自分の中にもつ」という土台の設定についてであります。


それは梨木さんに同意。

これが、全然ない。というのがおれのフィールドワークの途中結果報告。
こいつのX軸Y軸は、と探りながらジャブを打っても、どこかできいたようなことしかかえってこない。

ただ、その基軸は、イズムであってはならない。

自分の、視座、という用語はちょっとどうか、信条とか思想みたいな、イズムのニュアンスがあるから適切ではない、むしろ、感性の基軸、みたいなものか、これを養うには、まずは、一回、自分のなかに、徹底的に退却する必要がある。
感性をつくるのでなく、余計なものを排除して、ほんとの自分の声に耳を傾ける必要がある。
これには、時間も、引っ込む主体性も必要で、これだけはそんじょそこらではダメ。


「自分」を勝手に措定するまえに、「自分」から「退く」ことを、割合時間をかけてやらないといけない。

ここで、やっと、私本来の、触発から解き放たれた、きっかけが登場しました。

がらんどうでない奴は、「退く」ことを知っている、体で。


今回は、ここまで。