啓発舎

マジすか? マジすよ

素面で書くか酔っぱらって書くか。
音楽聴きながら書くか、無音で書くか。
予め決めたテーマで書くかどうか。
結論を、朧げながらも含んで書き始めるか。
はずみ車があるか、どうか。なわけないだろう、みたいな。
口先で書くか、深みにはまるか。
ほんとに思ってることを書くか、そうでないか。
浅いか深いか。これは、おれの意識の深度。
平静か波風たってるか。実生活で。


など、ざっと思いつく限り、書きはじめは、いろいろある。
自分でこういうのを書くとわかるのは、プロの書き手もまったくおなじだろうということだ。


文春、週刊のほう、がダメなのは、女のなぐさみのもになったのと、コラムが全然だめだからだ。
はっきり、おれのほうが面白い。


自分を読者に想定しているから自分で読んで面白いのは当然としても、手つきがみえみえ切り口浅薄人間ペラペラのどれか、或はそのすべてを満たす奴より面白いのは自明なので、これ以上言う気も起きない。

おれが唯一面白かったのは、しかし、まさにそのすべてを満たす、手つきばればれ感性平凡林芙美子もまっつぁお中曽根のうえをいくミクロン単位の鉋屑野郎であるところの福田和也週刊新潮連載だ。
タイトルかえたり体裁かえたりしてしばらく続いたが、結局切られましたね。
おれはそれが残念でたまらない。

なかみはもちろん全然だめなのになぜ面白いか。
それは、およそ、凡庸、としかいいようがないやつが、いかにして自分をいっぱしにみせるか。そのあらゆる手管が惜しげもなく披露されていたからだ。スリリングですらあった。
一番多かったのはペダントリーに逃げる。演算がだめだからメモリーでごmかす。
犬儒。これは結構つかえて、所詮、とか達観した風でなんか言えば、訳知りみたいにみえる。
劇評とか、そういうの。これは逆効果で、こいつが書いた歌舞伎の劇評は捧腹絶倒だぞ。五感がダメな奴は、劇評とかコンサート評はやめたほうがいい。
楽屋通。新潮だから、ここだけの話、みたいなネタは結構はいるだおる、それをちらほらだす。


逸れた。こんな奴はどうでもいいのだった。


ようするに、自分で書く一番のご利益は、巷で活字になってるやつの手の内がわかるから、そんなのを読んで時間を浪費することがなくなる。


おれが、自分で読んで一番面白いのは、酔っぱらって書いて、なにを書くか先行きどうなるかわからないで書いて韜晦するのもめんどくさいからしないで書くときです。


今夜みたいの。