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サラリーマンの進化が日本を強く 小林暢子氏
2018/11/19 11:30
日本経済新聞 電子版


先日、ハーバードビジネススクールの同級生複数に再会した。かつてはこうしたビジネススクールが米国を代表する大企業の経営層を輩出したものだが、いまや成功モデルはファンドマネジャーやフィンテック起業家。自分の財産をフルタイムで運用する級友はこう言う。「いまの米国で経済的に成功するにはサラリーマンでは無理。何かの形で投資家にならないと」


もちろんこのような層は働く米国人の代表ではない。リーマン危機から10年。米国経済は力強さを取り戻したものの、投資家偏重の結果、富の偏在が進んだ。前述の級友たちとは異なる、大半の取り残された人々の怨嗟(えんさ)がいまの政治混乱の原動力となった。新しい成長分野に資金と才能が偏り、巨大デジタル企業が育った半面、製造業など古い産業の力は衰えた。
日本の場合は1社に勤め続ける「サラリーマン」がまだ尊敬される働き方だ。多くは中間所得層に属する。サービス分野に軸足を移しつつも、いまなお日本経済の屋台骨を支える製造業で働く。こうした安定志向と呼ぶべきものが残る一方、世界のイノベーション競争に取り残されているのも事実である。暮らしに満足しても、働く日本人はあまり幸せそうにみえないのはそのためだろうか。
日本の産業界がサラリーマンを主軸とする安定を維持しつつ、組織の強さを取り戻す道はないか。私は組織と個人の間にもっと建設的な緊張感があってよいと思う。
働き手は組織への帰属を当たり前ととらえず、組織も従業員の滅私奉公をあてにしない。妥協となれ合いが支配する夫婦生活のように、お互いへの期待が減れば、手に手を取り合った成長は望めない。互いにもたれあわない緊張感から成長は生まれる。
変化はこれまでになく速く、グローバル化した日本企業には海外市場に即した戦略実行が求められる。若い人材には多くの権限を移譲し、将来の経営陣として経験を積ませる。働く側にも成長する志が求められる。会社という器を借りて自己実現するしたたかさが必要だ。
米国の現状は資本主義のひとつの終着点を示す。しかし、解は一つではない。日本は勤勉なサラリーマンという資産に磨きをかけることで、組織の強さを取り戻せるのではないか。会社とサラリーマンが、日本型組織の在り方を再定義するところに根本的な処方箋があるように思う。

 

 

     よくまとまった論考。だが結論は正反対。

 

◆「米国では経済的に成功するのはサラリーマンでは無理」

→これはは、米国に限らない。日本でもそう。

◆「日本の場合は1社に勤め続ける「サラリーマン」がまだ尊敬される働き方だ。多くは中間所得層に属する。」

→全くの誤り。1社に勤め続ける「サラリーマン」はもちろんばかにされているし、多くは下層民に属するのはすでに主宰が喝破しているところだ。

◆「お互いへの期待が減れば、手に手を取り合った成長は望めない。互いにもたれあわない緊張感から成長は生まれる。」

→逆。互いにもたれあわない緊張感は、破綻へまっしぐら。

◆「働く側にも成長する志が求められる。会社という器を借りて自己実現するしたたかさが必要だ。」

→奴隷に自己実現を要求するのは無理だ。

◆「勤勉なサラリーマンという資産に磨きをかけることで、組織の強さを取り戻せるのではないか。」

 勤勉なサラリーマン、という前提が幻想。

 

というわけで、この筆者の主張に反し、日本型組織がお先真っ暗なのは自明だが、話の進め方の骨格としてつかえるので掲げた。

 

手前味噌で恐縮だが、「会社という器を借りて自己実現するしたたかさ」はおれにも少し覚えがある。

物件を買い進めるに際し、「会社という器」の肩書き、一部上場管理職の名刺は、絶大な効果があった。強力な信用補強の力があった。

当然、会社に対して油断していなかったが、それは面従腹背を気取られないための緊張感であり、もっぱら当方のみの利益に資するものだった。快い、愉しい、淫する、という種類であり、私にのみ裨益する。

舞台の書割りのように、客席、会社のことね、から見ると中世のお城だが、おれから見ると、ベニヤと垂木、という構造であります。

 

 

この論考のまとめは「会社とサラリーマンが、日本型組織の在り方を再定義するところに根本的な処方箋があるように思う」で、よくある結論棚上げ、になっている。

よろしい、その「再定義」を筆者にかわり主宰がやってしんぜよう。

 

会社とサラリーマンのありかたの定義は以下だ。

「ばかしあい」

 

笑って、嗤って見物しよう。